原宿の雑踏に“光が差す”少女がひとり――中山美穂さん一周忌 旧知のカメラマンが語る「レンズ越しに惚れちゃう」忘れられぬまなざし
12月6日、54歳という若さて中山美穂さんが突然この世を去ってから1年――。東京・お台場では、有志のファンが美穂さんを偲んで「ミュージック花火」を打ち上げた。今も熱い想いを持ったファンたちが、さまざまな思いでこの日を迎えた。
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そんな中、東京・秋葉原では『美穂ちゃんスーパーファンの集い』という彼女を偲ぶ会が行われた。会場には、美穂さんをスカウトし、二人三脚で彼女がスターへの階段を登る道を切り開いた、芸能事務所「ビッグアップル」の創業社長・山中則男さんもゲストとして参加。会場にはファンが持ち寄った美穂さんの”お宝アイテム”が並び、音楽番組に出演した際の映像が流れている。しかし美穂さんの名前を冠する会にしては、少し小規模な印象である。そんな思いを山中さんにぶつけてみると……。
「今だから話せますが、'85年に美穂がレコード大賞で最優秀新人賞を獲った時、授与式の後にレコード会社などが開いてくれた祝賀会がいくつもあった。2~3か所にちらっと顔だけ出して、”疲れているので失礼します”と抜け、事務所に向かいました。実は、そこに親衛隊や仲のいいファンたちが集まっていて……美穂は彼らと過ごすことを選んだのです」
美穂さんは本当に心からファンを大事にしていた。
「当時から彼女を支えてくれたファンが今日、ここに来てくれています。ここにいる人たちは”にわか”ではない、正真正銘のファン。そんな人たちとこの日を過ごせたら……と思ったんですよ」
会のタイトルにある”スーパーファン”とは、美穂さんがコンサートの時”今日来てくださっているお客様は、みんなスーパーファンです”といった言葉からとったという。そんな会に、美穂さんをデビュー前から撮影していたというカメラマン、鯨井康雄氏の姿があった。
光さす少女
大地真央、里見浩太朗ら大物芸能人の写真集を200冊以上、また数多くの雑誌表紙や広告、CDジャケットなどを撮影している鯨井氏に、彼女との出会い、そして思い出を語ってもらった。
「'80年代の前半、アイドル雑誌の全盛期に、ライターと僕で原宿の竹の子族を撮りに行っていた。竹の子の中に、可愛い子がいるんじゃないかって。何人か撮らせてもらって、歩道橋の上から歩行者天国の人ごみを見ていたら、ふと200メートルくらい先に、光が差して見えたんです」(鯨井さん、以下同)
後光差すひとりの少女が立っていたという。
「見失うまいと、駆け出していた。その女の子に”写真を撮らせてください”と声をかけて、人の少ない木陰に移動して、撮らせてもらった。マフラーをカッコよく巻いていてね。なんなんだろう、この美少女は……と思って名前を聞いたら”中山美穂です”と名乗った」
この時、すでに山中さんのモデル事務所に所属していた美穂さん。モデルとしては活動していたが、まだ人気が出る前だった。当時のことを思い出しながら、鯨井さんはこう続ける。
「撮り始めてね”あ、この子は素人じゃないな”って感じました。それで、どこか事務所に入っているの? と聞いたら”ボックスコーポレーションです”って」
モデルとしての才能もあり、そのうえ感性豊か……というのが美穂さんの第一印象だった。
「だから、こちらから指示を出さなくても撮影できる、ある意味、ラクなタイプの女の子。でも、こちらの意図をプラスしていくと、もっともっと大きくなっていくような、そんな被写体でしたね」
1985年、ドラマ「毎度おさわがせします」のツッパリ少女役として女優デビュー、シングル「C」で歌手デビューを果たした美穂さんは、アイドルとしてブレイク。再会は、原宿での撮影から数年後のことだった。
「たまたま彼女を撮影する機会があった。そしたら向こうから”あの時のカメラマンさんですよね”と声をかけてくれたんです。あれは嬉しかったなぁ」
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