監督の「チームを奈落の底に落とす」発言にぶち切れた…自らトレードを志願した名選手たち

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騒動はあっけなく収束

 チームが日本一になったにもかかわらず、トレードを直訴したのが、西武時代の田尾安志だ。

 1985年に中日から西武に移籍した田尾は、3番打者として同年のリーグ優勝に貢献、翌86年は前年の127試合から106試合と出番が減ったものの、初の日本一の感激を味わった。

 だが、若手が次々に台頭し、新旧交代が進むチーム状況を目の当たりにした32歳は「当然、僕の出番が増える保証はどこにもなかった」(自著『それでも僕は前を向く』山と渓谷社)と危機感を感じ、根本陸夫管理部長に「どこかにトレードに出していただけませんか?」と直訴した。

 新天地で出場機会を求める心情を理解した根本管理部長は「横浜(大洋)でもいいか?」と打診したが、その後、前田耕司、吉竹春樹との1対2の交換トレードで阪神への移籍が決まる。

 移籍先は変わったが、大阪出身の田尾は「生まれ育った地元へ戻れる」と学生時代から憧れていた球団への移籍を心から喜んだ。そして、88年には3本のサヨナラ本塁打を記録するなど、ベテランの味を発揮し、5年間にわたってプレーした。

 日本ハムの新庄剛志監督も、阪神時代に藤田平監督との確執から、球団にトレードを直訴したことが知られている。

 1995年オフ、右足や右膝の故障などで1軍定着後最少の87試合出場に終わった新庄は、契約更改の席で突然「阪神を辞めたい。環境を変えてほしい。主張が受け入れられないなら野球を辞めるしかない」と爆弾発言をした。

 その後、新庄が契約更改の2日前に地元・福岡で開かれた後援会のパーティーでも「阪神を辞める」「横浜に行きたい」と知人に漏らしていたことが明らかになった。

 地元球団のダイエーではなく、出身地でもない横浜への移籍を希望したのは、当時交際中だったタレントの大河内志保が横浜に住んでいたからだったといわれる。

 だが、三好一彦球団社長は「選手のわがままを聞いてトレードに出せば、次は違う選手がトレードに出してくれということになる」と新庄の移籍希望を認めず、退団の場合は任意引退の手続きを取ることを明言した。

 新庄が契約交渉後の記者会見で「野球に対するセンスがないから辞めたい」と引退宣言したのも、トレード希望を却下されたことを受けてのものだったようだ。

1年間だけ我慢してくれ

 ところが、それから2日後、新庄は「ユニホーム姿を見せるのが(引退騒動で病に伏せた)親父への一番の薬」と一転現役続行を宣言、騒動はあっけなく収束した。

 その一方で、新庄が希望する横浜への移籍話は、翌96年も水面下で交渉が続けられ、畠山準との交換トレードがまとまりかけたが、直後、藤田監督の辞任が決まり、立ち消えになったという話も伝わっている。

 阪神といえば、江本孟紀も1980年オフに中西太監督との確執から岡崎義人球団社長にトレードを直訴した。

 球団としてはチーム事情からもエースを放出することはできない。自著『野球バカは死なず』(文春新書)によれば、岡崎社長は「1年間だけ我慢してくれ。その代わり、好きなことしてエエ」と説得し、1年後のオフにトレードに出すことを約束してくれたという。

 翌81年8月26日のヤクルト戦の試合後、江本は起用法に一貫性のない中西体制への積もり積もった怒りを爆発させ、有名な「ベンチがアホ」騒動が勃発した。オフを待つことなく電撃引退となったのは、周知のとおりだ。

 引退後の江本氏も「その口約束を真に受けたのが間違いだった」(2016年2月4日付・サンケイスポーツ)と回想している。

久保田龍雄(くぼた・たつお)
1960年生まれ。東京都出身。中央大学文学部卒業後、地方紙の記者を経て独立。プロアマ問わず野球を中心に執筆活動を展開している。きめの細かいデータと史実に基づいた考察には定評がある。最新著作は『死闘!激突!東都大学野球』(ビジネス社)。

デイリー新潮編集部

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