「あんたたち、私より前に出たらダメよ」襲い掛かるソ連兵の性暴力に敢然と立ち向かった若い女性 #戦争の記憶

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 1945年8月、第2次世界大戦に敗れ、国家としての主権を失った日本。植民地だった朝鮮半島は、北緯38度線を境にソ連(北側)とアメリカ(南側)に分割占領され、北側にいた在留邦人は過酷な運命をたどる。移動を禁じられ、食料も住居も不足した状態で厳冬期を迎えたため、栄養失調や感染症により大量死したのだ。

 また、たくさんの引揚者がソ連兵や朝鮮人のならず者による略奪や暴力に遭遇した。「いよいよ困ったときは、女ででも買収せねばいかん」――。ふたたび祖国の土を踏むため、決死の脱出行に乗り出した避難民団は、性的暴行から逃れるため、「身代わり」の女性を準備した事例が少なくなかったという。

 そんな惨状を見過ごせず、6万人もの日本人を救い出す大胆な計画を立てた「一人の男」――松村義士男(ぎしお)に光を当てた歴史ノンフィクション『奪還 日本人難民6万人を救った男』(城内康伸著)より、一部抜粋・再編集して紹介する。(全5回の5回目/最初から読む

住み慣れた家を捨て、北緯38度線を目指す

 17歳の女子学生・神崎貞代は、1945年8月に敢行されたソ連軍の侵攻から逃れ、両親と2人の妹の家族5人で貨物列車と徒歩で北緯38度線を越える。朝鮮半島の北部の街・清津(チョンジン)から咸興(ハムン)までなんとか一緒に避難した末の妹は1945年10月、栄養失調のため2歳で命を落とした。
 
 1946年5月25日。神崎一家は東の空が白まぬうちに咸興駅へ着いた。

 「夜が明ける前に家を出たのは、列車の発車時刻も分からなければ、時計もなかったからです。駅前の広場に着くと、たくさんの人が座り込んで列車を待っていました」
 
 やがて、何両にも連なった貨物列車がやってくると、避難民たちは地面に置いていたリュックを背負い、ぞろぞろとプラットホームへと歩いていった。森田芳夫著、『朝鮮終戦の記録』によると、この日の列車には計539人が乗車した。
 
 山間部にさしかかったころ、列車は長い時間停車し、避難民は全員降ろされた。北緯38度線から北に約50キロ離れた江原道(カンウォンド)の福渓(ポッケ)だった。一行は、旧遊郭地域の建物で夜を明かした。

 いくつかの集落を歩き、また列車に乗り、北緯38度線の少し北に位置する鉄原(チョロン)で列車を降りた。神崎らは徒歩で南北の境を流れる川を目指した。夜中を待って、川に辿り着くと川岸には、4~5艘の小さな船が繋がれていた。1艘当たりにおよそ10人が乗って、朝鮮人船頭に身を委ね、対岸に着くとピストン輸送を繰り返した。

「モスコー」と呼ばれたパーマ頭の若い女性

 一人の若い女性が神崎の記憶に強く残っている。福渓で夜を明かした翌朝だった。避難民団を率いていた団長の隣に、一人の若い女性が立っていた。年のころは22~23歳に見えた。色黒で丸顔の彼女は、ブラウスにスカート姿。チリチリにパーマをあてた髪を後ろから手ぬぐいで覆い、額でぎゅっと結んでいた。
 
「当時、パーマをあてて、スカートをはいている人なんていませんよ。ひと目見ただけで、普通の女性ではないと分かりました」。
 
 遊郭出の女性だった。
 
 頭に巻いた手ぬぐいの中には、北朝鮮に進駐したソ連兵を相手に体で稼いだ札束が隠されているとの噂が、避難民団の間でたちまち広がった。ソ連の首都モスクワにちなんで「モスコー」というあだ名が付いた。軽蔑の響きを含んでいるのは明らかだった。
 
 そんな侮蔑的な表現とは裏腹に、一行はモスコーの献身に救われた。日本人が列をなして歩く時、モスコーはいつも先頭に立って周辺に目を光らせた。ある日、2人の妹を連れた神崎が並んで歩くと、モスコーは「あんたたち、私より前に出たらダメよ」と釘を刺した。

もしも暴漢と遭遇したら、「身代わり」に……

 朝鮮人集落の門前では決まって、朝鮮人の男が金品を要求した。列車に乗れば、機関士やその取り巻きから「お前らは長年、我々から搾取してきた」などと言いがかりを付けられ、カネを求められた。
 
 やがて避難民団が用意したカネが尽きると、モスコーが手持ちのカネを渡していた。万一、暴漢に遭遇した際には「私たち(女性)の身代わりの役目も担っていたと聞きました」と神崎は振り返る。
 
 神崎が咸興で親しくしていた人物が日本に戻った後に語ったところによると、モスコーは南下するいくつもの集団を、北緯38度線まで送り届けていたという。

 咸興では、戦前は威張り散らしていた元憲兵隊の幹部が身分を隠してこそこそと暮らしている様子や、力なく泣く幼子に食べ物を分け与えようとしない大人の姿を目の当たりにしてきた。
 
「権力者という存在が、いかにはかないものか。本当に尊い生き方とは何か。17歳の心に染みこみました」。

「その女性」の姿は二度と見なかった

 一行が北緯38度線に辿り着いた日、モスコーの姿は見当たらなくなっていた。引率してきた団長が全員の前で涙ながらに声を絞り出した。
  
「皆さん、私どもはある方の献身的な行為に助けられたことを今、ここで思い出してください。命の恩人です。我々は生涯、その方を忘れてはならないのです」
  
 一行はみんな、「その方」が誰を指しているのかを知っていたに違いない、と神崎は思う。全員が深く頭を垂れて、団長の話を聞いていた。
  
 北朝鮮では、ソ連兵などによる暴行から守るため、「身代わり」の女性を準備した事例は少なくなかった。「モスコー」と呼ばれた女性もそうした役割を担っていた。
  
 咸興に隣接する興南(フンナム)の敗戦後の様子を伝える鎌田正二著の『北鮮の日本人苦難記』には、「いよいよ困ったときは、女ででも買収せねばいかん」との意見が日本人社会で出たとし、遊郭出や極貧の女性を対象にして「犠牲になってもいいという篤志家」を募った事実が記録されている。
 
 取材当時94歳だった神崎は、ロシア軍がウクライナへの軍事侵攻を開始したというニュースをテレビで見たとき、「あのとき(終戦直後)と全く一緒だわ。今も同じことが起きているなんて!」と思わず声を出してしまったと語っていた。
  
 ***
 
『奪還 日本人難民6万人を救った男』より一部抜粋・再編集。

松村義士男(まつむら・ぎしお)の生涯

1911年……12月14日、熊本県・飽託(ほうたく)郡春日町(現・熊本市)に生まれる
1924年ごろ……尋常小学校を卒業後、父が事業を営む北朝鮮の元山(ウォンサン)に移住、旧制の元山中学校に入学。その後「左翼運動のガリ版刷りの手伝いをしたことをとがめられ」、中学校を中退
1932年ごろ……日本窒素の興南(フンナム)工場に就職し、油脂工場硬化油係に配属される
1932年4月……労働環境の改善を求め労働運動に身を投じた結果、治安維持法違反の疑いで検挙される(投獄は免れ起訴猶予に)
1935年1月……帰国し、大阪労働学校(大阪市)に第37期生として入校
1936年12月……党の再建に向けた共産主義活動を行ったとして2度目の検挙(裁判の結果は不明)
1941年1月……咸興(ハムン)で、妻・正子との間に長女が生まれる。この頃、建設会社「西松組」に雇われ、建設工事現場で働いていた(正確な時期は不明)
1945年5月……召集され、朝鮮第210部隊の二等兵として戦役に出る
1945年8月……北朝鮮・咸鏡北道(ハムギョンプクド)清津(チョンジン)の南方に位置する羅南(ラナム)で終戦を迎える。捕虜収容所へ連行中に逃亡、咸興に帰還。進駐ソ連軍司令部の嘱託として通訳のような職を得る。同年秋以降、かつての同志・磯谷季次らと力を合わせ日本人の救済活動のため組織的な働きかけを開始
1946年5月……咸興から、日本人難民の集団脱出の規模が拡大。このひと月で1.3万人超が臨時列車で移送された。4~5月にかけて船による南朝鮮への脱出も軌道に乗る。同時期、脱出工作のため、松村は資産家から個人的に多額の資金を借り入れている
1946年年末……松村自身も日本に引き揚げ、故郷の熊本に戻る
1967年3月……多額の借金を抱えたまま、大阪の病院で死亡。享年55

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