「女が一人で便所に行くと…」ソ連兵の性暴力にさらされた、朝鮮半島の日本人引揚者たち #戦争の記憶

国内 社会

  • ブックマーク

 第2次世界大戦に敗れ、国家としての主権を失った日本。玉音放送の6日後にはソ連軍が朝鮮北部に進駐し、“棄民”と化した現地日本人に略奪と暴行の限りを尽くしたという。家に押しかけてきた複数のソ連兵に銃を突きつけられて襲われる、野外で誘拐されるなど、女性への性暴力も頻発した。必死に抵抗した10代の姉妹がソ連兵に銃殺される事件も記録されている。

 そんな惨状を見過ごせず、6万人もの日本人を救い出す大胆な計画を立てた「一人の男」――松村義士男(ぎしお)に光を当てた歴史ノンフィクション『奪還 日本人難民6万人を救った男』(城内康伸著)より、一部抜粋・再編集して紹介する。(全5回の4回目/最初から読む

ソ連兵に拉致された女性は、廃人のような様子で……

 ソ連兵の凶暴性は何よりも女性に対して、むき出しにされた。
 
 17歳だった神崎貞代は南下途中で辿り着いた日本海に面する城津(じょうしん、現在のキムチェク)で、ソ連兵の恐ろしさに震えた。
 
 城津駅近くにあった機関庫で深夜、疲れ切った体を休めていると、闇を引き裂く悲鳴が響き渡った。用を足しに機関庫の外に出た数人の女性が便所の前で、ソ連兵に連れ去られたのだった。
 
 神崎が表情を強ばらせて振り返った。
 
「明け方、女の人たちは黒パンを抱えて、さながら廃人のような様子で戻ってきたと聞きました。(避難民の間で)『女性は一人で便所に行かないこと』と注意が出ました。行く時間を決めて、その時には、男の人がトイレまで2列に並んで、その間を走って行くんです」

 女性は男に見えるように、髪をバッサリと切り、鍋底にこびりついたススを顔に塗りつけた。神崎や神崎の母もそれに倣った。

「ロスケがきたぞ」と叫ぶ声

 若い女性の断髪は当時、北朝鮮各地で繰り広げられた。例えば、満州との境に近い平安北道(ピョンアンプクド)江界(カンゲ、現在は慈江道=チャガンドに属する)では、「若い女達は、ソ連兵が来るたびに、みな屋根裏や地下室に隠れるか、高梁畑に身をかくした。誰いうとなく髪を切った女に手を出さぬというので、娘達はみないがぐり頭になって、立派な中学生になりすました」と江界日本人世話会会長を務めた八嶋茂は手記で振り返っている。

 水俣病の発生で国内外の批判を浴びた化学メーカー「チッソ」の前身にあたる「日本窒素肥料」。同社は戦前、日本海に通じる東朝鮮湾に面した咸鏡南道(ハムギョンナムド)興南(フンナム)に世界最大規模の化学コンビナートを築いた。その興南工場に勤務していた鎌田正二が記した『北鮮の日本人苦難記──日窒興南工場の最後』には、ソ連兵による暴虐の凄まじさについて、一例を挙げて描写されている。

〈「ロスケがきたぞ」と叫ぶ声に、逃げだそうとするまもなく、数名のソ連兵がピストルを手に、ドヤドヤと靴音たかくはいりこんでくる。一名のソ連兵は、おどおどしている夫にピストルをつきつけて、部屋のそとへつれだす。妻は子供をいだいて恐怖におののいている。ソ連兵は子供をうばいとって投げだし、女にいどみかかる。女の必死の抵抗も、数名の男にはかなわない。

 やがてソ連兵はひきあげてゆくが、死んだようになった女は、身を伏したまま泣いている。夫は歯を食いしばって、すごい形相をしていたが、やにわに庖丁を手にソ連兵を追おうとする。近所の人たちは、「がまんしろ」と押しとどめる。みんなに迷惑がかかるからと頼む。夫は思いとどまる。数日のあいだ夫はやけになって、どなりちらし、妻は苦痛のため起きようとしない〉

18歳、17歳の姉妹が惨殺された

 日本の敗戦後、咸興(ハムン)に住んでいた日本人と避難民の救済・援護活動にあたった咸興日本人委員会が1946年12月にまとめた「北鮮戦災現地報告書」は、1945年9月当時の咸興における被害を次のように伝えている。
 
〈特に戦闘部隊としてまっ先に進撃してきたソ連軍の本国帰還の交替期を前にして、司令官の命令を肯んじない不良兵の暴挙は、9月中・下旬が絶頂で、市街の周辺住宅地区を主として、昼夜の別なく不法侵入による盗難・暴行・凌辱事件が頻発、この届出が1日20件から30件を下らず、在留同胞は生きた心地のない日常生活に怯えきっていた〉
 
 報告書には、18歳と17歳の姉妹が11月2日に咸興の神社で、泥酔したソ連兵の求めを拒んで、数発の銃弾を浴びて死去した事件も記録されている。

子供の間で「ソ連兵ごっこ」が流行

 1946年春ごろになると、咸興や興南に在留する日本人の子供の間には、“ソ連ごっこ”が広がった。

「マダム、イッソ?(女はいるか) トン・マニイッソ(金はたくさんあるぞ)」

 ソ連兵役の子供が、黒パンに見立てた赤レンガをわきに抱え、朝鮮語で訊く。それに対して、日本人の男役に扮した子供がロシア語で「ニエット(いない)」と否定する。すると、ソ連兵役の子供は日本人の女性役になった別の子供を見つけて、次のように叫んで追いかけ始めるのだ。
 
「マダム、ダワイ!(女を出せ)」

 鬼ごっこに似た、この陰惨きわまりない遊びの流行は当時、ソ連兵の女性暴行が日常茶飯事と化していたことを示す証左だといえるだろう。

***

『奪還 日本人難民6万人を救った男』より一部抜粋・再編集。

松村義士男(まつむら・ぎしお)の生涯

1911年……12月14日、熊本県・飽託(ほうたく)郡春日町(現・熊本市)に生まれる
1924年ごろ……尋常小学校を卒業後、父が事業を営む北朝鮮の元山(ウォンサン)に移住、旧制の元山中学校に入学。その後「左翼運動のガリ版刷りの手伝いをしたことをとがめられ」、中学校を中退
1932年ごろ……日本窒素の興南(フンナム)工場に就職し、油脂工場硬化油係に配属される
1932年4月……労働環境の改善を求め労働運動に身を投じた結果、治安維持法違反の疑いで検挙される(投獄は免れ起訴猶予に)
1935年1月……帰国し、大阪労働学校(大阪市)に第37期生として入校
1936年12月……党の再建に向けた共産主義活動を行ったとして2度目の検挙(裁判の結果は不明)
1941年1月……咸興(ハムン)で、妻・正子との間に長女が生まれる。この頃、建設会社「西松組」に雇われ、建設工事現場で働いていた(正確な時期は不明)
1945年5月……召集され、朝鮮第210部隊の二等兵として戦役に出る
1945年8月……北朝鮮・咸鏡北道(ハムギョンプクド)清津(チョンジン)の南方に位置する羅南(ラナム)で終戦を迎える。捕虜収容所へ連行中に逃亡、咸興に帰還。進駐ソ連軍司令部の嘱託として通訳のような職を得る。同年秋以降、かつての同志・磯谷季次らと力を合わせ日本人の救済活動のため組織的な働きかけを開始
1946年5月……咸興から、日本人難民の集団脱出の規模が拡大。このひと月で1.3万人超が臨時列車で移送された。4~5月にかけて船による南朝鮮への脱出も軌道に乗る。同時期、脱出工作のため、松村は資産家から個人的に多額の資金を借り入れている
1946年年末……松村自身も日本に引き揚げ、故郷の熊本に戻る
1967年3月……多額の借金を抱えたまま、大阪の病院で死亡。享年55

メールアドレス

利用規約を必ず確認の上、登録ボタンを押してください。