「どこに行っても、うんこだらけ」「畳の上にバアーッと」…朝鮮からの引揚経験者たちが目にした「地獄の光景」 #戦争の記憶

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 第2次世界大戦に敗れ、国家としての主権を失った日本。朝鮮半島では38度線が封鎖され、ソ連の統治下に置かれた「北側」に取り残された在留邦人は難民と化した。

「ソ連軍が攻めてくる!」。1945年8月上旬、敗戦に先んじて、朝鮮の北部に住む日本人はパニック状態に陥っていた。住み慣れた土地や家財を捨てて避難を始めたものの、その逃避行は過酷を極め、「異様な光景」があちこちで目撃されたという――。

 そんな惨状を見過ごせず、6万人を救い出す大胆な計画を立てた「一人の男」――松村義士男(ぎしお)に光を当てた歴史ノンフィクション『奪還 日本人難民6万人を救った男』(城内康伸著)より、一部抜粋・再編集して紹介する。(全5回の3回目/最初から読む

25万人を襲った苦難の序章

 厚生省引揚援護局未帰還調査部が1956年にまとめた「北鮮一般邦人の資料概況」によると、ソ連や満州と国境を接する咸鏡北道(ハムギョンプクド)に在住する日本人は、1944年5月の時点で約7万4000人だった。
  
 翌1945年8月、ソ連軍の侵攻を知ると、数万人の一般邦人は住み慣れた土地と家を捨てて炎暑の中、西へ南へと逃避行を始める。それは北朝鮮に当時住んでいた約25万人の日本人を襲う苦難の序章だった。
  
 実は、日本軍は1945年春、ソ連軍と開戦すると咸鏡北道が戦場になると想定し、事前に道民の避難計画を立てていた。軍の予想した戦場地帯を避けて、羅津(ラジン)の西約50キロの会寧(フェリョン)を経て、さらに西へ進んだ茂山(ムサン)を経由し、内陸部の白岩(ぺガム)に南下するルートだった。軍の指令に従って、咸鏡北道の防衛本部は7月、この避難計画を「第98計画」として、各地区の官公庁や民間企業の責任者に限定して知らせていた。ただ実際には、東海岸づたいに、清津(チョンジン)方面に南下する人々も相当数いたとされる。

「万単位の人間が、狭い道をウッサ、ウッサと」

 羅津の北東に隣接する雄基(ウンギ)の警察や行政当局が約3000人の住民に避難勧告したのは8月10日朝だった。
  
 雄基国民学校6年だった大嶋幸雄は急いで荷造りした。国民学校2年の末弟は5月に左足を骨折しており、歩くことが困難だった。そのため、蔵にしまわれてあった乳母車を引っ張り出して、鍋釜や食料などと一緒に末弟を乗せて家を離れた。大嶋は両親や弟と共に避難民の行列に加わり、会寧に通じる道を歩いた。やがて、羅津方面などからの避難民数千人も合流した。鉄道は退却する軍の専用だった。
  
 峠にさしかかり、眼下を見下ろすと雄基の街が炎上していた。黒い煙が何本も絡み合いながら上空に舞い上がっていた。
  
「万単位の人間がね、狭い道を夕日に向かって、ウッサ、ウッサと歩くわけですよ。暑さのあまり、バテて座り込むやつも続出するし……。
 
 大日本帝国の崩壊、それから朝鮮という植民地の崩壊……それを象徴するような光景だった。映画のような世界を、いっぺんに見たわけですよ」

屋内に散乱していたのは人糞

 会寧に着くまでの6日間、「寝場所の奪い合いだった」(雄基国民学校6年だった大嶋幸雄)。学校や駐在所など、屋根のある所は瞬く間に避難民で満杯になった。少しでもモタモタすると、入れなくなる。そうなれば野宿するしか方法はなかった。
  
 大嶋の目には、異様な場景が焼き付いている。「どこの本にも書いてない変な話なんだけどね」。大嶋が目を大きくして話を続けた。
  
「どこに行っても人が泊まった後は、うんこだらけなんだ。30~40センチの間隔で畳の上にバアーッとしてある。屋内だよ。後から来た者は泊まれないんですよ。夜なんか暗いところ歩いていると踏んじゃうんだ。普通の人間、普通の避難民がやっているんですよ。これこそが戦争の不思議さ、怖さだよ」

ズック靴で進み、足は血だらけに

 14歳で羅津高等女学校3年だった得能(とくのう)喜美子は8月11日午後、両親と姉、妹の計5人で羅津の家を離れ、山中を歩き出した。父の秀文は前日10日の早朝、「軍の機密書類を焼却してくる」と言って家を出て、夕刻まで帰って来なかった。秀文は「満州電信電話」の羅津における責任者を務めており、軍関係の重要な通信業務にも携わっていたのだろう。府尹(市長に相当)の北村留吉が避難命令を出してから丸1日遅れの出発となった。
  
 12日夜、山道で避難民を乗せたトラックが近づいてきた。若い兵士がメガホンで「子供連れの女だけ乗れ! 若い者は歩け」と叫んだ。母の梅子と3歳の妹・美津子だけが半強制的に荷台に乗せられた。梅子は何かを叫んでいたが、トラックは間もなく走り去ってしまった。混乱の中で父ともはぐれた。結局、得能が両親と再会するのは、翌年夏に帰国した後になる。
 
 20歳の姉・輝子と二人、日本人の集団に付いて山中を進んだ。戦時中のズック靴は粗製で山中を歩き出すと、半日も経たないうちに底が抜けた。「最初は布きれでゴム底を縛って歩いていたのですが、砂がどんどん隙間から入ってきました」。足が血だらけになった。

山中で置き去りにされた赤ちゃん

 羅津を出発して3日目の午後。獣道に敷いた薄い毛布の上に、生後2~3カ月の乳児が置き去りにされていた。「乳児が泣けばソ連軍に見つかって、他の人にも危害が及ぶとでも考えたのでしょうか。母親はきっと、涙を呑んで我が子を捨てたのだと思います」
 
 得能は何度も同様の光景に出会った。
  
「何人(の捨て子を)見たでしょうか。一人が捨てると、他の女性も『じゃあ、私も申し訳ないから』と真似をして捨てたに違いありません。途中で兵隊さんが『トラックに乗れ』って叫んでいたのにですね、なんで乗せてもらわなかったんだろう、って悔しかったですね。10代半ばの少女が山中に乳児が置いて行かれるのを何度も見たんです。もう、頭がおかしくなりそうでした」
 
 ***

 第1回の〈「生き地獄」から6万人を奪還――無名の男が命懸けで画策した、集団脱出劇の全内幕とは〉をはじめ、終戦で難民と化した極めて過酷な状況下で、外交官・杉原千畝の「10倍」もの同胞を祖国に導いた「松村義士男」について、全5回にわたって紹介する。
 
『奪還 日本人難民6万人を救った男』より一部抜粋・再編集。

松村義士男(まつむら・ぎしお)の生涯

1911年……12月14日、熊本県・飽託(ほうたく)郡春日町(現・熊本市)に生まれる
1924年ごろ……尋常小学校を卒業後、父が事業を営む北朝鮮の元山(ウォンサン)に移住、旧制の元山中学校に入学。その後「左翼運動のガリ版刷りの手伝いをしたことをとがめられ」、中学校を中退
1932年ごろ……日本窒素の興南(フンナム)工場に就職し、油脂工場硬化油係に配属される
1932年4月……労働環境の改善を求め労働運動に身を投じた結果、治安維持法違反の疑いで検挙される(投獄は免れ起訴猶予に)
1935年1月……帰国し、大阪労働学校(大阪市)に第37期生として入校
1936年12月……党の再建に向けた共産主義活動を行ったとして2度目の検挙(裁判の結果は不明)
1941年1月……咸興(ハムン)で、妻・正子との間に長女が生まれる。この頃、建設会社「西松組」に雇われ、建設工事現場で働いていた(正確な時期は不明)
1945年5月……召集され、朝鮮第210部隊の二等兵として戦役に出る
1945年8月……北朝鮮・咸鏡北道(ハムギョンプクド)清津(チョンジン)の南方に位置する羅南(ラナム)で終戦を迎える。捕虜収容所へ連行中に逃亡、咸興に帰還。進駐ソ連軍司令部の嘱託として通訳のような職を得る。同年秋以降、かつての同志・磯谷季次らと力を合わせ日本人の救済活動のため組織的な働きかけを開始
1946年5月……咸興から、日本人難民の集団脱出の規模が拡大。このひと月で1.3万人超が臨時列車で移送された。4~5月にかけて船による南朝鮮への脱出も軌道に乗る。同時期、脱出工作のため、松村は資産家から個人的に多額の資金を借り入れている
1946年年末……松村自身も日本に引き揚げ、故郷の熊本に戻る
1967年3月……多額の借金を抱えたまま、大阪の病院で死亡。享年55

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