「壊れるまでやっていこうと思った」 “横綱の重圧”味わった「白鵬」の決意と挫折 本人が明かす(小林信也)

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「7歳の時(1992年)、初代若乃花さんがモンゴル相撲の英雄だった父を訪ねて自宅にいらしたんです」

 白鵬翔は神妙な表情で言った。〈土俵の鬼〉が世界の相撲のルーツをたどるNHKスペシャルの旅の途中でモンゴルを訪れたのだ。

「かっこいいおじいちゃんだなあと感銘を受けました。それが日本の相撲に魅かれるきっかけでした」

 中学3年までバスケットボールをやっていたが、12歳の時、父に隠れてレスリング道場に通ったことがある。

「父はメキシコ五輪のレスリングで銀メダルを取った。負けていないのに銀だったと知らされて、“よし、自分が代わりに金メダルを取ってやろう”と思った」

 学校を休んでレスリングの大会に出ていたら父がすごい剣幕で迎えに来た。

「骨が丈夫じゃないうちにレスリングをやっちゃだめだ。まだ早い!」

 白鵬少年は戸惑った。

「父は喜んでくれると思っていたから。どうやら、体の小さいうちにやると自信をなくす、そういう哲学が父にあったみたい」

 旭鷲山、旭天鵬らの活躍があって、モンゴルでも大相撲の衛星放送が始まった。

「友だちとよく雪の上に円を描いて相撲を取りました。学校では一番強かった。その頃の得意技は〈二枚蹴り〉でした。それが後の〈上手投げ〉につながるんです。私の上手投げは〈三所攻め〉なんですね。〈内掛け〉、〈渡し込み〉、そして肩を上から押す。上手だけど〈小手投げ〉っぽいし、足も払う。〈黄金の左〉と呼ばれた横綱・輪島さんと話した時、『本当は左下手投げの前に右上手を利かせるのが大事』と言われた。私もまったく同じです。右手一本で投げるわけじゃない」

「涙そうそう」で勉強

 2000年秋、旭鷲山の紹介で来日。一緒に来た6人は入門できたが、身長175センチ、体重68キロと細身の白鵬は引き受けてくれる部屋がなかった。帰国前日にようやく宮城野部屋に決まった話は有名だ。

 初土俵(前相撲)は01年3月。序ノ口で取った最初の5月場所は3勝4敗。

「序ノ口で負け越して横綱になる力士はいないと言われた。けど、調べたら他に2人いたんです」

 そう言って、白鵬はニヤリと笑った。

「初代の若乃花、それに吉葉山」

 白鵬とは縁のある横綱だ。吉葉山は宮城野親方(元竹葉山)の師匠だ。

「序ノ口で負け越して、“日本語を勉強しよう”と決めた。言葉が分からないと、親方の指導が理解できない。そしたら兄弟子が『涙そうそう』のテープを貸してくれた。“これで勉強しろ”と。それを何度も聴いて日本語を勉強したんです(笑)」

 入門当初の白鵬は“小兵力士”の取り口だった。

「最初は跳んだり跳ねたり、舞の海さんと千代の富士さんのビデオばっかり見て研究していました」

 翌年の名古屋場所、三段目でもう一度3勝4敗を経験した。

「2度目に負け越した時、“体を大きくしよう”と決めました。普通は1日2食だけど、夜も外に出たりしてとにかく食べた」

 そのかいあって堂々とした体に変わり、双葉山、大鵬のビデオを見て研究できる力士になった。十両を2場所で通過して入幕。約2年を経て関脇で連続優勝(いずれも13勝2敗)、大関昇進を決めた。この時、何か目覚めがあったのか?

「そうなんです。06年初場所十日目の雅山戦で相撲が変わった。立ち合いから、イメージどおり左前褌(まえみつ)を取る相撲が初めて本場所の土俵でできたんです。

 これで型ができた。型ができるとどんどん相撲が深くなる。型にこだわるのでなく、“立ち合いがすべてではない”とも分かってくる。“型を作って、型にこだわるな”という教えどおりですね」

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