横尾忠則が考える「人間がこの世に生まれてきた最大の理由」
僕は幼少の頃から虚弱体質で病気ばかりしていたように思います。しかし、命にかかわるような大病はしてこなかったようにも思います。でもケガはよくしました。性格がオッチョコチョイだったからでしょうか。
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ケガはかなり大きいケガで、ずいぶんと痛い目に合っています。成人になってからも大小のケガは続いていました。最も大きいケガは自動車事故に遭ってムチ打症が高じて、(この辺の話は長くなるので省略しますが)足が壊疽(えそ)という病気にまで発展して、足の切断間際までいったことがあります(これも説明すると長くなりますので省略します)。まあ、奇跡的(正にこの言葉通りです)に助かったのですが、もし、この時、足の切断が現実のものになっていたら、その後の僕は今と全く違う人生を送っていたかも知れません。
これも運命です。
その後は、老齢に近づくに従って想像もしない多種多様な大中小の病気(中には病気とはいえないものもありますが)を、まるで日替メニューのように経験してきました。
それは多分僕自身の肉体に対する異常なほどの関心がそうさせたように思います。朝、目覚めると同時に、「今日はどこが変かな? どこが痛いかな? どこが悪いかな?」と自己診断する習慣というかクセがついてしまっているのです。
だから、ちょっとしたことでも病院に飛んでいきます。自分という存在を元々不健康体と想定してしまっているのかも知れません(きっと、そうです、これが事実です)。前にも話しましたが、自分という存在は何者か? ということの探究の結果です。そのくせ、自分という存在は何者でもないことぐらいは知っているのです。それを知ったから、何んだ、とさえ思っています。
こういう時の僕は、自分の本体は肉体ではなく魂的存在であるということを知っているにもかかわらず、ちょっとした肉体の異変が生じた時は自分の本体は魂ではなく、突然、普段の考えを否定して、本体は肉体であると言ってしまうのです(実にアマノジャクでしょう)。
だから肉体の異変が生じると急に「私とは精神とか魂とか霊ではなく肉体である」と決めつけて、この肉体を哲学化してしまうのです。えらい肉体に執着しているように思うでしょ? ところが、自分はいつ死んでもいい。だから、ワーワーいうほど僕は死を恐れていないところがあります。
自分を悩ませたり苦しませたりしているのは自分が肉体的存在であるせいで、その肉体の消滅と同時に遭遇する死によって、何もかもが無になると信じている人は死を恐れます。また恐れて当然です。
肉体の一部に生じた異変で病院に矢のように飛んでいく僕が死をそんなに怖がっていないことに、多くの人は矛盾を感じられると思います。僕もそう思いますが、僕は多分、何も起こらないことに、どこか不満を抱いていて、何か起こらないかな、起こらないかなと、起こることを期待しているところがあります。この状況は絵の制作時とそっくりです。絵を描くということは画面の中で、次々と事件を起こす作業なんです。創作とは事件を起こすことなのです。
他動的に起こる事件は嫌ですが、自らが自動的に起こす事件は、結局遊びなのです。絵を描くのは事件の連続行為で、それは永遠に遊び続けるということです。
僕がすぐ病院に飛んでいく。このことは結局遊びなんですね。人間が自由でいたい、常にそうありたいという願望は、遊びへの願望じゃないでしょうか。
僕は人間にとって最高の境地は遊びだと思います。遊びにはルールはありません。思いのまま行動する子供のあの自由な快楽がそのまま遊びです。
僕が病院に飛んでいくのも、自分では気づいていないけれど無意識が遊びたがっているだけのことかも知れません。目的も計算も結果も意味も考えないということは、だからそういうことなのかも知れません。
人が悩んだり、苦しんだりする境遇には遊びがありません。遊びから距離を置いてしまったから、その結果の代償として悩んだり苦しんだりするような気がします。
遊びの中に悩みや苦しみがあるのではなく、悩みや苦しみの中に遊びが欠如している結果なんじゃないでしょうか。
病院に喜んで行く人などいません。それは自分を見つめることを恐れた結果かも知れません。自分という存在の事実を明確にしたくない結果です。それを「遊びに変えたら?」と言って、その通りにする人はいません。人間は最終的に自分を解き放って自由になりたいわけです。その秘訣は遊びです。ヨハン・ホイジンガーはそういうことを言いたいんです。つまり、つきつめて考えると、人間がこの世に生まれてきた最大の理由は遊ぶためなんじゃないですかね。僕は絵を描いていて、いつもそう思うんですよね。


