“あさま山荘事件”で人質に 牟田泰子さんがかたくなに口を閉ざした理由 「私は死んだ方がよかったのか、と悩んでいた」【追悼】

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 物故者を取り上げてその生涯を振り返るコラム「墓碑銘」は、開始から半世紀となる週刊新潮の超長期連載。今回は11月13日に亡くなった牟田泰子さんを取り上げる。

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「報道によって追い詰められた」

 1972年2月19日、長野県軽井沢町にある、河合楽器の保養所「あさま山荘」で管理人を務める牟田郁男さん、泰子さん夫妻の穏やかな暮らしは激変した。

 郁男さんが愛犬の散歩中、銃や爆弾で武装した連合赤軍のメンバー5人が館内に侵入、一人でいた泰子さんは人質に。籠城は10日に及び、銃撃戦に日本中が震撼(しんかん)した。泰子さんは突入した警察により救出されたが、警察官2名が殉職する。

 日本テレビのアナウンサーとして事件現場から連日実況放送し、関係者100人以上を取材して2000年『浅間山荘事件の真実』を著した久能靖さんが言う。

「私が牟田さん御夫妻のお宅を初めて訪ねた時は事件から四半世紀以上がたっていましたが、泰子さんは事件について一切語りませんとおっしゃっていた。郁男さんは話に応じていただけるようになり、以来、お付き合いがずっと続きました。泰子さんは被害者なのに、人質体験そのものの記憶以上に、救出後の報道によってかたくなに口を閉ざすまで追い詰められたのです」

「犯人に同情的」と批判され……

 40年、福岡県宇美町生まれ。高校を卒業後、福岡の倉庫会社に就職。4歳年上の郁男さんと職場結婚した。軽井沢で住み込みの管理人をしていた泰子さんの両親の勧めで夫婦も軽井沢へ。山荘が開設された69年から働く。事件はその3年後に起きた。

 救出から3日後、病室でベッドに横たわったまま約10分ほど初の記者会見。一問一答の全てが記事に掲載されたわけではなく「犯人は脅すようなことを言ったでしょうか」と問われ「いいえ」と答えた部分や「退院したら、まず何がしたいか」との問いに「みんなと遊びたい」と語ったくだりが抜き出されて報じられた。

 不謹慎な答えではないのに「犯人に同情的だ」「お前のために警官が亡くなったのに」などと批判されカミソリが同封された脅迫めいた手紙まで届くようになる。

 当時、郁男さんは「週刊新潮」の取材に〈泰子はむろん、警察官の方々が亡くなられたことも、大ぜい負傷されたことも知っていて、本心から申しわけない、と思っているんです。だが、あの時のインタビューでは、そういう質問はしてくれなかったし、泰子がもっと何かいいたくても、質問を次々と変えてしまう。“遊びたい”といったのは、十日間も不自由な身だったので、早く自由な、もとの生活に戻りたい、といった意味のことをいいたかったらしいんですが、なにぶん言葉が足りなくて……〉と語った。

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