悠仁さまと昭和天皇に“共通点” 「韻」の秘話に込められた秋篠宮ご夫妻の想い

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厳粛な命名の儀

 命名の儀は午後3時35分にスタート。秋篠宮さまはモーニング姿、紀子さまは空色の絹の服で臨まれ、徳丸久衛宮務官(当時)が、悠仁と書かれた紙を秋篠宮さまから受け取り、紀子さまに示した後、白木の桐箱に納めた。続けて高野槇と書かれた紙を紀子さまから受け取り、宮さまに示してから同じ箱に入れ、悠仁さまの枕元に置き、終了となった。双方とも「大高檀紙」と呼ばれる厚手の和紙に秋篠宮さまが毛筆でしたためられたものだった。

 宮務主管の日野西氏は東京都出身で、藤原北家系の公家の流れをくむ華族の旧日野西子爵家に養子で入り、宮務主管を2004年から14年まで、10年間にわたって務めた。17年に肺炎のため73歳で亡くなったが、宮内庁元幹部はこう回想する。

「秋篠宮家の“侍従長”を自任しているような方だった。悠仁さまのご誕生には、ご両親以上といっても過言ではないほど喜んでいたことを、今も覚えている」

 ご誕生当時は、“お世継ぎ”となる男性皇族が誕生しない状況が続いていたことから、10カ月前の2005年11月、小泉純一郎首相(当時)の私的諮問機関「皇室典範に関する有識者会議」が女性天皇や女系天皇を容認する最終報告書をまとめ、天皇家の長女・愛子さまの皇位継承が視野に入ろうとしていた。それだけに、41年ぶりとなる待望の皇族男子生誕には、皇室全体が喜びに包まれた。

 同元幹部はこうも話す。

「皇室の歴史を顧みたとき、生前退位前の上皇陛下はご自分の代で男系男子の原則を捨て去り、女性天皇、そして歴史上は存在していない女系天皇さえも認める大変革を、果たして行っていいものなのだろうかと自問自答を続けられているように拝察していました」

 また、上皇陛下の警備を担った皇宮警察関係者も「無事ご誕生の一報をお聞きになるまでは、上皇陛下は散髪もされておられない様子でした」と語っている。

占いの書物から

 宮内庁書陵部と、その前身に当たる宮内省図書寮では、歴代天皇や皇后、皇族の生涯をまとめた「実録」や「紀」と呼ばれる編集物の刊行を担ってきた。

 有名なものには『明治天皇紀』や、病気療養中のプライバシーの観点から黒塗りが多く不評だった『大正天皇実録』、2度で計8年もの延長を経て2014年8月に24年5カ月の歳月をかけて完成し「日本の戦後史を紐解く鍵になるのでは」と注目された『昭和天皇実録』がある。また、このほか『孝明天皇紀』や『昭憲皇太后実録』『四親王家実録』『明治以後皇族実録』などがある。

 そのうちの『貞明皇后実録』には1901年5月5日の項目に「新誕の親王生後七日に当るを以て、命名の儀を行はせらる」との記述がある。昭和天皇は、誕生から7日目となったこの5月5日に命名の儀を執り行い、父親で当時は皇太子だった大正天皇ではなく明治天皇から、裕仁の名と迪宮(みちのみや)の称号をもらった。名前の候補には他に「雍仁(やすひと)」や「穆仁(あつひと)」が挙げられ、称号の候補には「謙宮(かねのみや)」というものもあった。またお印の若竹は、母親の貞明皇后が選定したものだった。

 ちなみに悠仁さまは、天皇家の子供ではなく宮家の子供のため、天皇家の長女・愛子さまの敬宮や昭和天皇の迪宮のような称号をもらうことはなく、選ばれなかった雍仁の名は昭和天皇の長弟・秩父宮に与えられることとなった。裕仁の「裕」の文字は、古代中国の占い(易)の書物「易経」に「益徳之裕也」との記述があったほか、中国最古の詩集『詩経』には「此令兄弟綽々有裕」、古代中国の歴史書『書経』にも「好問則裕自用則小」とあったことなどから選ばれたとされる。

 2025年はまた、戦後80年という節目の年でもあった。神話の時代も含めれば2000年を超えるとも言われる日本と皇室の歴史の中でも、最も困難な時代だったとされる戦後は、敗戦を境に大日本帝国憲法が日本国憲法へと変わり、国家元首だった天皇も象徴天皇に立場が様変わりした。

 同元幹部は「象徴天皇の元祖と言うか、原点は昭和天皇です。戦没者を悼(いた)んで、遺族を労り、戦後復興の道程を国民と共に歩んだ昭和天皇の“天子像”こそが、現代皇室で初めて宮家から皇位を継承することとなる悠仁さまが目指すべきものという、秋篠宮ご夫妻のお考えもあったのでしょう」と、命名の真意を推し量った。

朝霞保人(あさか・やすひと)
皇室ジャーナリスト。主に紙媒体でロイヤルファミリーの記事などを執筆する。

デイリー新潮編集部

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