画家・横尾忠則が語る“絵の中を旅する”方法 「知識や言葉は必要ない」
この「週刊新潮」の原稿は、僕がしゃべって、それを編集者がリライトしているのではないかと思っている人が随分多いですよ、と今日来たテレビのディレクターの知人が言いました。
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ということは文章になってないのかも知れない。僕は文筆家でないから、自分の文体を持っているわけではなく、早くいえば話し言葉に近いから、そう思われているのかも知れない。
作家の文体はひとつの創造です。絵でいえば造形です。画家は造形を確立することでその作家の文体を確立します。僕の書くエッセイは、そんなしんどい努力はしません。伝えたい、あるいは語りたいことがあれば、その内容を書くだけです。だからそこには表現の独自性などありません。表現という言葉さえ不必要です。特別上手に伝えたいとも、上手く書きたいとも思いません。小説と違ってフィックションを書くのではなく、ありのまま、その時、心に浮かんだままを書きますので、ウソは書けませんね。
僕の文章は自分では中学生程度ではないかと思っています。元々子供の頃から読書が大嫌いだったので一番多感で海綿みたいに何んでも吸収する子供時代に本を読まなかったことのツケが、このような文章しか書けない、という結果を生んだんじゃないかと思います。
以前にも書いたと思いますが言葉で物を考えるより絵で考えることが得意だったのです。絵をジッと長時間かけて眺めるのが好きだったのです。その絵を描いた画家の一生に経験した出来事、思想が全部一枚の絵の中に表現されているのです。ビジュアルランゲージという言葉がありますが、これは絵が見る人に語りかけてくる言葉です。
僕は画集を見ても解説にはさほど興味がないのです。というのは解説の大半は知識だからです。僕はそんな知識より、絵が発信している絵の表現のエネルギーとか作者の情念とかに興味があるので、なるべく解説文から離れて、絵の表面に描かれたモチーフだけではなく、その表現された筆のタッチ、または色の組み合せ、色の重なり具合、または絵の明暗、密度のある表現と粗雑表現の組み合せ、そして絵の構成と空間、そんなものに興味があります。
だから、そうした表現を目で辿ることで絵の中を旅することができるのです。大半の解説文は、その画家の略歴がどのように作品に反映されているかに関心があり、その作品の意味などを語ります。しかし、僕にいわせれば絵の意味などどうでもいいのです。
というのは大方の画家は意味など表現しようと思っていないのです。その時の気分を最も重視しているのです。ということになると、つまり、絵から発信されるエネルギーです。僕はこのエネルギーを受けて元気になったり解放されたりするのです。そういう意味では絵は精神の薬です。
絵を観賞する人の多くは、作品を観賞する以前に、題名や画家の経歴に関心を持って、次に作品を眺めます。絵を知識で見ることを最優先にするのです。そしてその知識を言葉にして、教養として作品を理解するのです。
作品の理解には知識や言葉は必要ないのです。むしろそのようなものを頭から廃除して、見た時に感じたこと、思ったこと、直感したこと、それが観賞者の心に残こる、それでいいのです。
それが、どうも見る前から頭に知識としてつめ込んで、言葉で理解したことをわかったと思っている人が多いのですが、それでは絵がわかったことにはならないのです。絵は感性で受けとめるものです。動物のように感じる、つまり肉体で感じるのです。頭ではないのです。多くの観賞者は頭でっかちになっていて、いつの間にか肉体を忘れています。
作家自身がすでに頭でっかちになっているので、観念を先行する作品を作ります。そして頭で作った作品を言葉で説明します。僕に言わせれば言葉では表現できないから絵でそれを行なうのです。
自分が絵を描いている時、何を描こうとしているのかわからないことがあります。手が勝手に動きます。絵を描く時に身体にゆだねます。僕の頭が描くのではなく、僕の肉体が描きたいように描かせるのです。
もっというと絵が僕に描かせるのです。僕が絵の下僕になることで、僕にとっても絵にとっても最もふさわしい絵になるのです。この時、僕は他動的になります。他動的な時には僕を越えます。未知の領域に僕を誘います。
そして僕は気づくのです。
「こんな絵が描けちゃった」と。
そういう人ごとのような心境です。だから絵はなんぼでも描けるのです。頭で描いていると沢山は描けません。文章は頭の作業ですから、なんぼでも書けるようなことはありません。文章はひとつひとつ言葉を殺していく作業ですが絵は一筆一筆生かす作業です。そこが文章と絵の違いです。


