浅丘ルリ子と吉永小百合に「どなたですか?」 横尾忠則の“顔音痴”

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 物忘れが激しいのは老化現象のひとつだと思う。この間も、知人の俳優さんがアトリエに来ることになったものの、顔はよくわかるのにどうしても名前が思い出せない。つい先日も遊びに来られて、そんなに日が経っていないのにもし最後まで名前が出てこなかったら困ります。そうこうしている間に本人が現われた。そして顔を見た途端、思い出した。竹中直人さんだった。

 その昔、僕のアイドルは高倉健さんと浅丘ルリ子さんだった。このことは本人達もご存知で、何度も会ってすでに知己の仲だ。

 ある時、何かの番組に出るためにTBSテレビのロビーへ入った時、前方から明きらかに女優というオーラーを発散しながらやってくる人がいました。

 誰だろうと思ってやゝ緊張して見ていると、その女優らしい人が、僕の顔を見てニコニコ笑いながら近づいて来られた。きっと僕を誰かと見間違えていらっしゃるのだろうと思って、ぼんやり突っ立っていると、その女優らしい人が、「こんにちわ」と声を掛けてこられたが、何んて名前の女優だっけと考えてもなかなか思い出せない。ボンヤリと鳩が豆鉄砲玉を食らった顔をしていると、その女優さんはけげんな表情で、「横尾さんでしょう?」と話された。どうやら知っている人らしいが誰だかわからないので「ハイ、横尾ですが、どなたで――?」と言うと、その人はいきなり声の調子をかえて、「アラ、私よ、浅丘ルリ子よ」と。

 その少し前に浅丘さんの実家に招かれて、食事の接待を受けている。多分妹さんだと思われる女性がお茶を運んだり、実にせわしそうに出たり入ったりしておられるが、一向にご本人の浅丘さんが現われないので、その妹さんらしい人に、「あのう、浅丘さんはいらっしゃるんでしょうか?」と尋ねるとその女性が、大きい声で笑いながら「私、浅丘です」と。

 もう僕は全くの顔音痴で、そのために何度も相手の方に恥をかかせています。僕は画家で言葉よりも視覚で物を考える人間なのに、イヤー、大変失礼いたしました。

 ついでにもうひとつ失礼な話をします。

 数年前、東宝スタジオに山田洋次監督の映画のタイトル画を何本か制作するために通っていました。スタジオ内の建物にスタッフルームがあって、僕はその部屋の片隅に私設アトリエを作ってもらって、そこでいつも絵を描いていた。そのことを知っている人達は時々、顔を出して部屋に遊びに来てくれていました。

 そんなある日、キャンバスに向ってかなり大きい絵を描いていました。部屋には誰もいません。スタジオで撮影中のため、全員出払って留守です。絵を描くには最高の環境です。

 そうして絵を描いている時、僕の後ろに人の気配を感じましたが、僕は無視して描いていました。そして、筆を置いて一休みした時、背後から、「横尾さん!」と声を掛ける女性がいました。「ハァ」と振り向くと一人の女性がニコニコ笑顔で立っていました。「あっ、どうも」と言ったものの、この女性が誰だかわかりません。笑顔が美しいので、もしかしたら、今撮っている映画の出演者のひとりかな、と思いましたが、心当りがなく、「あっ、どうも、どうも」といい加減な生返事をしながら、

「エェーッと、どなただったですかね?」

 と聞くと、その女性は笑いながら、

「ハイ、私、吉永小百合です」

 とおっしゃったので、持っている筆をポロッと落としそうになるほど驚いてしまいました。

「吉永小百合です」と言われた途端、確かにその女性は吉永小百合以外の誰でもありません。誰が見ても一瞬で吉永小百合とわかります。そんな天下の美女吉永小百合さんとたった二人で、誰もいないスタッフルームで遭遇しているのです。

 浅丘ルリ子さんにしても、吉永小百合さんにしても、100メートル先きからでもわかる超有名女優さんなのに僕はどうして、自分は視覚の人だなんて日頃から言っているのに、突然、超有名人が現われた瞬間、目が曇ってしまうのでしょうか。自分でもよくわかりません。

 最後にもうひとつ。今から55年前、大島渚監督の「新宿泥棒日記」に出た時の夜間ロケ中のことです。出演者の僕の側からカメラを見るとカメラの後ろには沢山のスタッフと見物人が立っています。こういう沢山の人に囲まれて、無数の視線に晒されての演技は、素人俳優には残酷です。カメラの後ろに群がっている人達の中にひとり、気になる人がいました。なぜかその人は僕から視線をはずしません。誰かな? それにしてもやりにくいなあと思っている内に、このシーンの撮影は終って、先っきから気になる人は一体誰だろうと近づいてみると、毎日顔を見ている妻が、ヤジ馬の中のひとりとなって、そこに立っていたのです。

横尾忠則(よこお・ただのり)
1936年、兵庫県西脇市生まれ。ニューヨーク近代美術館をはじめ国内外の美術館で個展開催。小説『ぶるうらんど』で泉鏡花文学賞。第27回高松宮殿下記念世界文化賞。東京都名誉都民顕彰。日本芸術院会員。文化功労者。

週刊新潮 2025年11月13日号掲載

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