記者から日銀副総裁にまでなった「藤原作弥さん」 山口淑子さんに信頼されたエッセイストとしての人生

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 物故者を取り上げてその生涯を振り返るコラム「墓碑銘」は、開始から半世紀となる週刊新潮の超長期連載。今回は10月17日に亡くなった藤原作弥さんを取り上げる。

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「姉は藤原さんのおかげで救われた」

 藤原作弥さんは幅広い活躍で知られた。時事通信の記者時代からエッセイストとして評価され、退職後に日本銀行の副総裁を務めた異色の経歴の持ち主だ。

 中でも1987年に『李香蘭 私の半生』(新潮社刊)を山口淑子さんと共同執筆し、数奇な運命を歩んだ彼女の人生を丁寧に浮かび上がらせて話題になった。

 山口さんは日本人でありながら戦時中に中国人女優・李香蘭として日本の宣伝工作に利用されたスターだ。

 ソ連軍の侵攻により満州で1年以上難民同然の生活を送った藤原さんにも満州は大きなテーマだった。約40年を経て現地を取材、関係者への聞き取りから子供時代の体験を『満州、少国民の戦記』に著す。

 同書に感銘を受けた山口さんは自叙伝執筆への協力を求めた。満州を美化も正当化もせず、出来事、言動を具体的に表現した藤原さんならと信頼したのだ。

 山口さんに毎週1~2度のペースで1年以上インタビューを重ね、中国に出かけ足跡を実際に確認、資料にも徹底してあたった。自伝は自己弁護に陥りやすく、評伝では内面の描写が難しいという欠点を克服した新しい形の伝記だ。

 実直な筆致は李香蘭を通じた昭和史だと称賛された。山口さんは自分自身に戻れたと語っている。

 山口さんより12歳年下の妹、山崎誠子さんは言う。

「本を書いた時の様子を私は知りません。でも姉は藤原さんのおかげで救われたと感謝していた。藤原さんと私の付き合いは姉が(2014年に)亡くなった後もずっと続いていました。姉の元秘書と同様に、李香蘭について問い合わせなどがあると藤原さんが親身に相談に乗って解決してくれたのです。私が写真をラインで送ったり、普段から世間話もしていました」

生き延びたことを後ろめたく……

 藤原さんは37年、仙台生まれ。父は言語民俗学者で、一家は44年から満州の興安街(現・中国内モンゴル自治区ウランホト)に居住。

 藤原さんの父は現地の士官学校で日本語を教えており、ソ連侵攻の翌日に一家は軍の貨物列車で脱出した。だが、後発の人々は徒歩で移動中にソ連軍に襲われ1000人以上が惨殺された。

 一家は朝鮮との国境、安東(現・丹東)で足踏みし、藤原さんは蛮行を目撃、生き延びたことを後ろめたく感じ続けた。

 46年秋に引き揚げ。東京外国語大学でフランス語を学び、62年、時事通信に入社。大蔵省、日銀など財政金融の分野を政治、国際情勢も踏まえて捉える経済記者として重宝される。

 80年代から親交のあったジャーナリストの小宮和行さんは振り返る。

「金融担当、日銀ウオッチャーとして有名でした。謙虚で無駄口をたたかない。経済誌の座談会に参加してもらった時は、真面目過ぎて困ったほど。実力があるのに出世に無関心でした。私が大連生まれと知ると、引き揚げだねと言い、仕事以外でも時々会うように。多才でも本分は記者で、文章の通りの人柄。エッセイにはユーモアがあった」

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