「頬げっそり」華原朋美がやり過ぎてしまうのはなぜ?それでも私たちが嫌いになれない理由
SNSが奪った「歌い上げる勇気」とセルフラブ文脈の令和アーティストたち 「平成」の歌姫としての矜持は「ナルシシズム」?
だが、少し立ち止まって考えたい。そもそも「歌い上げる系」の楽曲が減ったのは、歌い上げるほどの「自意識の居場所」が失われたからなのかもしれない、と。感情をあらわにすることが「重い」「イタい」とされる時代に、全身で世界を抱きしめるように歌うことは難しい。朋ちゃんやあゆがSNSで見せる「過剰なわたし」は、もしかしたら平成のステージの延長線上にあるのかもしれない。プライベートを謎めかせ、令和の今も歌姫のポジションを守り続けているMISIAさんや椎名さん、宇多田さんらとは真逆で、「見せることでしか語れない」朋ちゃんとあゆ。でもそこにこそ、二人の特異性がある。
彼女たちはずっと「見せる」ことで生きてきた。美しさも、恋も、涙も、全部が表現だった。だからこそ、令和の「自分軸志向」の中で浮いて見える。近年の女性アイドルや若手女性アーティストは「他人が決めた美にとらわれ過ぎない」「今のわたしをわたしがまず認める」というセルフラブの文脈を自然体で体現している。今年の紅白初出場が期待されるちゃんみなやHANA、FRUITS ZIPPERなどはそうした姿勢が同性からの支持につながっている。また、Adoさんやtuki.さんのように、そもそも顔出しNGという歌手も増えている。それは顔を見せることで、要らぬ批判を浴びるリスクも想定しているからだろう。
令和のアーティストが「語らない自由」を得た一方で、朋ちゃんとあゆは「語り続ける宿命」を背負っている。ライブや息子との写真にハイテンションな絵文字や動画を付けて公開する朋ちゃん。男性ダンサーたちとのリハーサル写真に、ポエムを組み合わせて投稿するあゆ。どちらも「話題づくり」と揶揄されながら、それでも自らを物語化することをやめない。
その姿は、ある意味で「職業的ナルシシズム」の極致だ。だが、それを貫くからこそ彼女たちはいまもスターなのだ。合理主義や多様性が支配する令和にあって、あの「わたしを見て!」という純度100%の自己演出は、むしろ清々しい。自分を語ることでしか立っていられない、そんな生き様の濃度は、時代がどう変わってもまねできない。
かつて彼女たちは時代のシンデレラとして登場し、お姫さまのように振る舞い、愛された。
「朋ちゃん」「あゆ」と、彼女たちが自分で生み出したあだ名を、日本中が呼んでいた。朋ちゃんの明る過ぎるテンションも、あゆの完璧過ぎるリハーサルショットも、全部が「見せること」でしか呼吸できない人であることの証し。誰よりも自己演出のルールを知り尽くしているのは、他でもないこの二人なのだ。
朋ちゃんやあゆのように、痛みも喜びも全部さらけ出し、「見られるわたし」を誇りとして生きる姿を、私たちはどこかで待っている。年を重ねると、かつて夢中で聴いた歌手がいまも元気にステージに立っているだけで、妙に胸が温かくなるのはわたしだけだろうか。もし紅白のトリで、再び「I’m proud」や「M」が始まるイントロが流れたなら、その瞬間、平成を生きた私たちが感じていた痛みや光も、きっと少しだけよみがえるはずだ。





