【べらぼう】歌麿に無茶な要求を連発… 大河主人公なのに「蔦重」に人気がない決定的な理由

国内 社会

  • ブックマーク

絵に描き込んだ強烈な自負心

 そのような自負心は、歌麿が描いた美人画のなかにも垣間見える。一例だが、寛政7~8年(1795~96)ごろに近江屋から出した美人大首絵『五人美人愛敬競兵庫屋花妻』は、「歌麿筆」の上に「正銘」と記され、「本家」という印も押されている。それだけではなく、画中の女性が読んでいる手紙に「人まねきらい」「美人画ハ哥子にとゝめ参らせ候(美人画は歌麿にとどめを刺す)」と書き込まれている。

 また、寛政8~10年(1796~98)ごろに鶴屋から刊行された『錦織歌麿形新模様』(そのうちの「白うちかけ」)にも、画面左上に巻物をかたどって文章が配置され、「自分の画料は鼻とともに高い」と自画自賛し、ほかの絵師のことを「蟻のように出てくる木の葉絵師」とこき下ろしている。

 とはいっても、蔦重あっての歌麿だったことは疑う余地がない。

 実際のところ、蔦重と歌麿がどのようにして出会い、どのような経緯で一緒に仕事をすることになったのか、正確なところはわかっていない。だが、早い時期から蔦重が歌麿の才能を買い、育てたことは疑いない。同居していた時期もあったし、2人が単なる版元と絵師の関係を超える絆で結ばれていたことは、改名をみてもわかる。

 当初は「北川」の姓を使っていた歌麿だったが、天明3年(1783)7月刊行の『燈籠番付 青楼夜のにしき』から「喜多川」を名乗るようになった。喜多川は蔦重の養家の姓で、それを名乗らせたということは、蔦重は歌麿を自分の一族に迎え入れたにも等しい。

 その後も蔦重は、自分の故郷である吉原を歌麿にたっぷり取材させ、美人画から春画までをリアルに描く訓練を積ませたと考えられる。また、『画本虫ゑらみ』などの豪華な狂歌絵本を通じて、写実的で質感の高い絵を描くチャンスをあたえ、さらに腕を磨かせた。そうした経緯を得て誕生したのが、女性のバストアップを描いた美人大首絵であり、それは蔦重のプロデュースがなければ誕生しなかった。

 歌麿はほかの版元から美人画を出すようになったとはいえ、結局、歌麿が描いた美人画の8割は蔦重がプロデュースしている。

次ページ:通常は見えない舞台裏だから

前へ 1 2 3 次へ

[2/3ページ]

メールアドレス

利用規約を必ず確認の上、登録ボタンを押してください。