「人が見えていないものを見たりして…」 横尾忠則が感じている“世間とのズレ”の正体 「芸術においてはむしろいい」

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 僕はムカシから人や社会とズレていることを感じていました。このズレはほぼ決定的なもので、年齢を重ねれば重ねるほどその溝は深くなっていくように思います。

 そのことを一言で言ってしまうとこういうことです。この世界のとらえ方、物の考え方がどうも人と違うのです。世の中の大半の人はこの世界を見える、手で触れることができるものと考え、そして言葉や観念で理論的に科学的に根拠を説明できる、という世界観にもとづいた考え方を基本としているはずです。

 ところが僕はいつの頃からか全ての物の根源は物質であるという唯物的世界も認めると同時に、その背後に隠されている、いわゆるこの現実とは分離された、もうひとつの見えない、触れることのできない、科学的に理解不可能な世界の存在に特に強く心が惹かれていたのです。

 学校教育の根底にはすでに唯物的発想がありました。説明のつかない事物はこの世界に存在しないという考え方を根拠にした教育です。学校教育だけでなく、社会全体が、唯物的な考え方で構成されており、誰も全く疑問など持ちません。

 そんな環境の中で、どうして僕は説明のつかない事物に興味を持つようになったのか、このことは生まれながらの僕の思考の根源に存在していたものです。誰に教そわったわけでも何かの影響によるものでもありません。それにしてもどうして目に見えないものを信じることができたのか、自分でも説明することができません。

 人間は元々そういうものだと思っていました。だから、そういうことを認めない人がいることの方が不思議でした。だけど年齢の経過と共に、こういう人の方が圧倒的に多く、僕の生まれながらの想いや、経験がどこか世間とズレているように思い始めました。人が見えないものや感じないものが僕には自然なのに、どうして学校や社会がそれを否定するのかわからないのです。といって、このことを主張すると、人づきあいに影響したりし始めるので、このことは社会的タブーとして封印した方が、生き易いということを次第に学びました。

 しかし、僕の内的世界は次第に拡張していくにもかゝわらず、潜在的に社会とは何んとなく乖離していくのですが、逆にこのことによって自己のアイデンティティが確立されていくような気がして、ズレていることをかえって面白く考えるようになっていきました。

 ではそのズレは具体的にどういうことかと言いますと、どうやら人が見えていないものを僕が見ていたり感じていたりするようなのです。つまり物質的存在としては存在していないにもかゝわらず僕には、そこにあたかも物質的存在として存在しているのです。

 例えば空中にあるにもかゝわらず、僕と同じ場所から、そちらを向いているにもかゝわらず、その人には見えないのです。また、突然現われた目の前の人が、次の瞬間消滅するのです。一般的には死霊という存在です。

 この物質的世界に存在するはずがないのに、僕にはあたかも物質として何ら変らない物として出現し、そしてやがて消滅するのです。

 このような現象を人に話したとしても、人は多分、僕が夢を見ていたのだろうとか、妄想したのだろうと、この物質的現象世界の物差しでしか認識してくれません。そんなわけで次第に人に話すことを避けるようになりました。さらに、日常生活の中でも人と異った感じ方をしていることに気づきます。

 ある、多分現実にはあり得ない体験を、人に語ることがたまにありますが、僕の体験を聞いた人は、おそらく、僕の想像か、あるいは作り話ぐらいに思うのか、それ以上詮索をしません。このように日常生活の中で感じとる僕の感覚と、相手の人の間に時にはかなりのズレが生じることがあります。

 幼少期の頃から、時々このような僕だけの「現実」を体験して、今は社会人となりました。社会の事象に対するとらえ方も、時には一般の方とかなりズレた考え方や発想をしているように思いますが、幸い僕はこのズレた考え方を作品として表現しているので、一般の方には多分気づきません。ひとつの芸術表現だと感じとってもらっているように思います。

 この時代にピッタリのズレていない考え方や発言をされる方は、ある意味で時代の発言者です。だからこのような全くズレていない発言者はメディアの中で大変貴重な存在として重宝されています。

 しかし、芸術に於いては、むしろズレている方がいいのです。ズレている分、すぐ理解されないかも知れませんが、どこか未来を先取りしているはずです。創造力は過去からも影響を受けますが、実はまだ見ぬ未来の時間の中で創造はすでに完結しているのです。まだ現実化していませんが、少しの時間のズレによって、やがて、ズレながらこの現実世界に浸入してきます。現実と自分がズレていると感じる人は沢山いると思います。ズレているがために現実と共有できない人です。ズレることを恐れずに、自らのズレをもっと評価していいんではないでしょうか。そんなふうに思いますけど。

横尾忠則(よこお・ただのり)
1936年、兵庫県西脇市生まれ。ニューヨーク近代美術館をはじめ国内外の美術館で個展開催。小説『ぶるうらんど』で泉鏡花文学賞。第27回高松宮殿下記念世界文化賞。東京都名誉都民顕彰。日本芸術院会員。文化功労者。

週刊新潮 2025年11月6日号掲載

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