「最悪の状況下で両親に人生の終末を迎えさせてしまった」 横尾忠則が思い出す“家族の記憶”
今までにも、小出しにちょこちょこ書いてきましたが、僕を育ててくれた養父母のことを書いて置きたいと思います。
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戸籍では僕が4歳の時に横尾家の養子になったと記されているけれど、もし、そうだったら、4歳の時に実の両親から切り離されて横尾家に行ったことになります。すでに物心のついた年齢だから、養子先きの夫婦にそう簡単に懐かないように思います。
第一、僕の「忠則」という名前は、養母の母親が神道の黒住教の女官であったために、教祖の黒住宗忠神の「忠」を頂いて、神主が命名したと聞かされていました。
ということは僕が生まれて間もなく、つけられた名前であるらしい。僕の養父は実父の兄で、複数の兄弟(妹)が会議の結果、子供のいない養父の家に僕を養子として出してもらいたいと実父に説得したせいで、僕は養子になったという経緯を僕の実弟から聞かされていました。
そこでひとつ腑に落ちないことがあります。それは、僕が養子になったのは4歳よりもっと前ではないかということです。また、不思議なことは実父母の間に生まれたにも拘わらず、なぜ養母の宗派の神主が僕に「忠則」とつけたかです。
実父母の間に生まれた僕は養父母の所に行くまでにある程度の空白時間があったはずです。空白時間がどの位あったのか知りませんが、その間、僕には実父母がつけた名があったはずです。だから何日間か、何十日間かは、僕は別の名前であったはずです。江戸時代には幼名といって、一人の人間に複数の名前がついていたという歴史的事実があります。
戸籍には現在の「忠則」という名しか記されていないので誕生から「忠則」になる前の何日間かは実父母のつけた名があったはずなのに、その名は実両親も養父母も明かしていないので今は不明です。
まあ、こんなややこしい関係の元で僕はこの世に誕生させられました。そのことがすでに僕の運命の岐路(Y字路)であったのです。僕は自分の意志で生まれてきたわけではありません。こうなるようになって生まれてきた、そのせいか僕の性格の資質には、なるようになる運命まかせの生き方に従がわされたようなところがあります。
だから僕は生まれながらに客観的な生き方に身をゆだねてきたようで、この運命による路線をそのまま自分のアイデンティティにして、そして今日までやってきたように思います。
そんな養父母は実父母からの贈り物として僕を猫可愛がりに可愛がってくれました。一瞬でも僕の姿が見えないと大騒ぎです。僕が何か行動を起こそうものなら、「危い!」と言って両親は飛んできました。
そして国民学校に入学するようになっても、勉強を強要しません。「絵はいくら描いても病気にならないけど勉強をし過ぎると病気になる」といつも心配していました。両親が必要以上に僕に勉強を勧めないのは、自分達が尋常小学校しか出ていない無学の徒なので、僕が学問を身につけて大きくなって両親から離れて都会に行くことを大変恐れていたからのように思います。
自分達が老齢であるために、僕が高卒後、都会に行ってしまったら面倒を見る者がいなくなるのです。そのことを察知していた僕はできれば地元の郵便局に勤めて、趣味の日曜画家で生活するのが、両親のためにも僕の郵便趣味と絵のためにもこれ以上の生活はない、と僕もそう考えていたのですが、運命は思い通りになりませんでした。
高卒と同時に僕はふとしたことから神戸の新聞社の図案課にスカウトされて、神戸に居をかまえることになってしまったのです。入社当時は郷里から電車通勤をしていたのですが、毎日、2時間以上かかるので、体力の限界のために通勤は続かなくなってしまいました。
神戸は同じ県内ですが、それでも毎週日曜日には帰省していました。両親は交互に毎日のように手紙を送ってくれましたが、二人共淋しい、淋しいとばかり口ぐせのように書いてきました。
運命のいたずらは、5年後に起こります。僕と妻は上京。と同時に父はそのショックからか、脳梗塞で死去してしまいました。郷里にひとり取り残こされた母も、郷里を引き上げたものの、東京での老人の淋しい生活に耐えられないまま、数年後に亡くなってしまいました。
養父母が最も恐れ、心配していた状況がそのまま現実になってしまったのです。僕も自分の生活が貧困な中、到底、両親の面倒を見ることもできず、最悪の状況の下で、両親に人生の終末を迎えさせてしまう結果になったのです。今となっては、実の子でもないのに、それ以上に溺愛してくれた両親と、長寿としての肉体を与えてくれた実の両親、この二組の両親には感謝以外に言葉がありません。


