大エースなのに…ポストシーズンでなぜか勝ち運に見放された「悲劇の投手」

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悲運のエース

 CSでは勝利投手になっているのに、日本シリーズで1勝もできなかったのが、西武・西口文也だ。

 1997年、ヤクルトとの日本シリーズでは、第1戦で石井一久と互角に投げ合ったが、0対0の8回、テータムに左翼ポール際に浴びた一発が命取りとなり、0対1で惜敗。1勝3敗で迎えた第5戦でも、2回に3連続長短打で2点を失うなど、高めに浮く球を狙われ、5回3失点でシリーズ2敗目を喫した。

 翌98年、横浜との日本シリーズでも、第1戦では足でかき回された後、痛打されるパターンを繰り返し、2回4失点KOされた。2勝3敗で迎えた第6戦では、マシンガン打線を7回までゼロに抑えたものの、0対0の8回に野選などで1死一、二塁のピンチを招き、2死後、チェンジアップが高めに浮くところを、駒田徳広に右中間2点タイムリーを浴びた。

「失投やけど、しゃあない」と振り返った西口だったが、2年連続でシリーズ開幕戦と日本一決定試合でいずれも敗れるというめぐり合わせの悪さだった。

 2004年の中日との日本シリーズでは、2勝2敗の第5戦に先発、川上憲伸と投げ合ったが、3回に荒木雅博の左越え三塁打と井端弘和の遊ゴロで1点を先制された。4回には連続四球をきっかけに、井上一樹の右前タイムリーで2点を失い、7回途中3失点で負け投手に。史上4人目のシリーズ通算5連敗のタイ記録となった。

 日本シリーズで通算7回登板しながら1度も勝てなかったのは、3度の“ノーノー未遂”と併せて、悲運のエースのイメージを強調している。

西武・東尾修とのエース対決

 西口同様、シリーズ通算0勝5敗で終わったのが、シーズンで通算213勝を記録した広島のエース・北別府学である。

 球団2度目のリーグVを果たした1979年、近鉄との日本シリーズ第1戦に先発したが、初回に遊ゴロエラーと2つの四球で2死満塁のピンチを招き、羽田耕一に中前2点タイムリーを浴びる。1点差に追い上げた4回にも永尾泰憲にタイムリーを許し、4回3失点で降板した。22歳の若きエースは「自分自身がわからなくなり、ツルツルのボールを投げていた感じ」と初登板の頂上決戦の雰囲気にのまれた感があった。

 1984年の阪急との日本シリーズ第2戦では、8回まで散発4安打の無失点に抑えながらも、2対0で迎えた9回に先頭打者の簑田浩二に左越えソロホームランを打たれリズムを崩した。1死後には3連打を浴び同点に追いつかれ、降板後には逆転され負け投手となった。

 さらに3勝1敗と日本一に王手をかけた第5戦も、4回に小林晋哉に勝ち越しソロを許すなど、5回3失点で通算3連敗。「簡単に点を取られ過ぎる」と古葉竹識監督をボヤかせた。

 18勝をマークして2度目のリーグ最多勝に輝いた1986年も、通算4度目の日本シリーズは“鬼門”となった。

 3勝0敗1分と2年ぶり日本一に王手をかけた第5戦、西武・東尾修とのエース対決は1対1のまま延長戦に突入した。

 延長12回1死二塁のピンチで、北別府は“炎のストッパー”津田恒実のリリーフをあおぐが、直後、投手の工藤公康にサヨナラ打を打たれ、170球の力投も報われなかった。

 再び西武と相まみえた1991年も、第2戦で7回までゼロに抑えながら、0対0の8回、秋山幸二に初球を左越えに運ばれ、ついにシリーズ通算5連敗。5度出場したシリーズで、先発6試合を含む11試合に登板しながら、1度も勝利の女神を振り向かせることができなかった。

久保田龍雄(くぼた・たつお)
1960年生まれ。東京都出身。中央大学文学部卒業後、地方紙の記者を経て独立。プロアマ問わず野球を中心に執筆活動を展開している。きめの細かいデータと史実に基づいた考察には定評がある。最新著作は『死闘!激突!東都大学野球』(ビジネス社)。

デイリー新潮編集部

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