DeNA・三浦監督は2位でも辞任…好成績なのに退任した“監督列伝”
痛烈な皮肉
中日の黄金期を築いたにもかかわらず、まだ優勝の可能性を残しているシーズン中に解任通告を受けたのが、2011年の中日・落合博満監督である。
04年の就任以来、7年間で3度のリーグ優勝、07年に日本一を達成した落合監督だったが、11年は首位・ヤクルトに最大10ゲーム差をつけられるなど、優勝はほぼ絶望とみられていた。
そして、チームがヤクルトに4.5ゲーム差に迫り、本拠地で首位決戦4連戦が幕を開けた9月22日の試合前、突然、「新しい風を入れる」という理由で、落合監督の解任が発表された。
解任劇は、過去7年間で黒字収支が一度もなかった球団の赤字体質改善に伴うものだったと言われている。
落合監督の年俸3億7000万円(推定)は、他球団と比べても非常に高く、赤字を減らすには、監督を交代するのが一番手っ取り早かった。また、“反落合派”の球団幹部は、どんなに勝ち続けても観客数が伸びない原因を、ファンサービス不足で、報道陣にも不愛想な落合監督に結びつけ、解任に向けて動きだした。9月6日の巨人戦で敗れた試合後には、ガッツポーズをした球団幹部もいたと報じられた。
解任を通告された落合監督は「はい、わかりました。残り試合も全力を尽くします」と答え、ここから怒涛の快進撃が始まった。
チームはこの日から10勝2敗1分と白星街道を驀進し、10月6日に首位浮上。同18日に横浜と3対3で引き分け、逆転Vを実現した。前述のガッツポーズ事件を知った選手たちが「なんでオレら負けるのにガッツポーズされるんだ」と反発し、奮起したからだと言われている。この結果、球団史上初の2年連続リーグVを成し遂げた監督を解任したという痛烈な皮肉がもたらされた。
20年連続Bクラスに
西武を4年間で2度日本一に導いた広岡達朗監督も、3度目のリーグVを達成した1985年の日本シリーズ敗退後の11月8日に、任期を1年残して電撃辞任した。表向きは「健康上の理由」だったが、希望する補強策が受け入れられなかったことなどが理由で、フロントと衝突したことが真相だといわれている。
女性問題が原因で、前期2位、後期3位(総合2位)という好成績を残したにもかかわらず解任されたのは、1977年の南海プレーイングマネージャー時代の野村克也監督である。
70年に就任した野村監督は、73年にリーグVを達成するなど、8年間でAクラス6回と安定した成績を残していた。自身も8月26日のクラウン戦で通算1万打数を達成。川勝傳オーナーとも密接な関係にあり、担当記者の間でも「南海は安泰」とみられていた。
ところが、シーズン終盤の9月13日に開かれた球団関係者の会議の席上、野村監督が当時交際中だった後の沙知代夫人をめぐり、「コーチ会議にも口を出し、選手たちの顰蹙を買っている」など、公私混同の言動が問題となり、解任の方向で話が決まる。川勝オーナーは「野村の言うことをよく聞いたうえで、結論を出したい」とシーズン終了後まで問題を先送りしようとしたところ、同25日に一部スポーツ紙が「野村更迭決定的」と報じ、野村監督も「私のほうから辞表を出すつもりはない」と態度を硬化させてしまう。
9月28日に本人不在のまま正式解任が発表され、その後、野村監督は“一兵卒”としてロッテに移籍した。
一方、南海は鶴岡一人元監督の愛弟子・広瀬叔功監督が就任したが、野村監督支持派のリリーフエース・江夏豊、若手内野手の柏原純一もトレードで去り、後継捕手も不在という苦境に直面。翌78年からダイエー時代の97年まで20年連続Bクラスという長い低迷期に突入する。











