窒息死しそうな物置に閉じ込められ… 横尾忠則が振り返る「パワハラだらけ」の国民学校時代

  • ブックマーク

 今回はちょっとタイムスリップして国民学校2年生の頃の回想記でも書いてみようと思います。終戦の1年前のことです。まだ小学校が国民学校と呼ばれていた頃です。そろそろ戦争も激しさを増し本土空襲が始まっており、他校から疎開の生徒が転校して来ました。

 この頃のクラスの集合写真を見ると先生ひとりが肥っていて生徒は皆んな痩せています。食糧難の時代で、まともにお米など手に入らず、さつま芋の蔓を茹でたものが主食の時代です。

 僕は1年生の夏に小川で大怪我をして、2ヶ月ばかり休学しました。学科の方がかなり遅くれ、回復後は遅くれを取り戻すために少し厳しいクラスに編入させられて、そこでガリ勉を強制されました。そのせいか、2年生になった時、僕はクラスの級長に指名されました。

 そんなある日、級長の権限を行使したわけではありませんが、教室の掃除の雑巾掛けの時、普通は床の板目にそって拭くのを、僕はそれじゃ面白くないので板目に逆らって真横に拭くように指示をしました。すると床がチェック状になって、何んだかガタガタしているように見えましたが、いかにも自然の摂理に反抗したような、でもアート的に見えました。そこへ担任の女の先生が現われて、「一体、誰がこんな醜い汚ない雑巾掛けをしたんですか」と目をつり上げて怒ったのです。掃除係の全員がいっせいに僕を見たために、「横尾さんが指示をしたんですか」と先生は物凄い形相で僕を睨み、その場で「あなたの級長は今日で解任です」と叫ぶように言って教室を出て行きました。

 そんな事件があって以来、僕はその先生に事あるごとに叱られるクセがついてしまいました。ある日、校舎の上空すれすれに飛行機が飛び去りました。窓際に座っていた僕は思わず窓から半身、外に乗り出すようにして、「飛行機や!」と叫ぶとクラスの生徒全員が窓の方に駆け寄って来ました。さらに僕と級友の岡本君が一番騒いだために2人は、小黒板を首からぶら下げられて1年生から6年生の全教室を廻らされました。その黒板には「授業中に僕達は窓から身を乗り出して飛行機を見ました」と書かれていました。今ならパワハラで大問題になるところですが、当時はこれが道徳教育だったんです。

 全教室を首から黒板をぶら下げてサンドイッチマンみたいに廻らされて、学校中の笑い者になって実に屈辱的な気持を味わわされました。

 各教室を一巡して、これでおしおきが終ったと思ったら、次は階段の下の物入れの小部屋に岡本君と閉じ込められてしまいました。

 この小部屋には運動具などがぎしぎしに詰められていて、身動きもできません。

 いくら待っても先生は来ません。学校も引けて他の生徒の声も聞こえなくなりました。この物置の小部屋は狭く、空気も悪いのですが、外から鍵をかけられているために出ることができません。岡本君と2人で大声を上げて泣き叫ぶのですが、誰も来てくれません。どうやら2人を閉じ込めた担任の先生はそのまま帰ってしまったようなのです。

 しばらくして2人で物音を立てながら泣き叫んだために、通りがかった別の先生が何事かと思ってドアを開けてくれて、やっと救われたのです。もし、この先生に助けられてなかったら荷物だらけの小部屋で窒息死をしていたかも知れません。何があってもおかしくない時代の小さい事件ですから、社会的には全く問題にはなりませんでした。

 僕は老父母に育てられた、まともな子供で、このようなおしおきをされなきゃいけないような腕白な子供ではなかったはずです。学校でこのようなことがあったとは親にも話せないままでした。岡本君と僕を小部屋に閉じ込めた先生はとにかく怖い独身の先生でしたが、このことがあって数年後、まだ30代か40代で亡くなられたと聞きました。まあ、この先生に限らず、他にも怖い先生がいましたが、先生より怖いのは何んといっても戦争です。終戦は昭和20年、僕が3年生になった夏でした。

 戦争の恐怖から解放されたものの、食糧や物資は不自由なままです。食糧や全ての生活用品は配給制になりました。だけど次第に子供の世界にアメリカ文化が導入されてきました。大人はともかく、子供は実に単純で、町に進駐軍がやってくると、進駐軍がジープから投げてくれるチューインガムやチョコレートやカンパンが貰えるので、子供にとってはアメリカ様々でした。大人や、僕達より少し年齢の高い子供達は、どこかに反米意識があったように思いますが、僕の世代の子供は、どんどん輸入されるアメリカ文化を片端しから受け入れたのです。

 そんな精神的な下地をそのまま知らず知らず受け入れ、思想の一部となって人格形成をしてきたように思います。僕達の上の世代はともかくとして、また逆に僕達より下の世代の若者達もなぜか政治的な事柄に興味や関心を持っていたように思います。とすると、僕のような1930年~40年生まれの人間だけが、なぜか空白地帯を経験したまれに見る世代の人間だったのではと思うのです。そんな空白を原点にした人間は社会的現実よりも、内的現実に興味があるように思うのですが――。

横尾忠則(よこお・ただのり)
1936年、兵庫県西脇市生まれ。ニューヨーク近代美術館をはじめ国内外の美術館で個展開催。小説『ぶるうらんど』で泉鏡花文学賞。第27回高松宮殿下記念世界文化賞。東京都名誉都民顕彰。日本芸術院会員。文化功労者。

週刊新潮 2025年9月25日号掲載

メールアドレス

利用規約を必ず確認の上、登録ボタンを押してください。