老化が進行すると“老人”という芸術作品になる? 89歳の横尾忠則が日々を振り返って思うこと
なんだか毎日老化が進んでいるように思えてなりません。この歳(89歳)になると、昨日より今日、今日より明日とどんどん歳を取っていくように思えてならないのです。それがはっきり目に見えるのです。僕の周辺に同い歳か、前後の人がいれば、その人との比較もできるし、お互いに老化の確認もできるのですが、そういう人が見当らず、というかさっさと鬼籍の人になられてしまっています。
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アトリエには来客が多いのですが、皆んな僕の歳の半分位の人達ばかりです。まあ若い人に囲まれていると、自分の年齢を忘れることがあります。そんな若い人でも考え方が随分古くて、僕の方が若いんじゃないかと錯覚することも結構あるのですが――。
でもそれは精神的なもので、僕が問題にしているのは肉体的なものです。昨日まで平気だったことが、今日、身体の一部が急に動かなかったりするのです。そしてその状態が固定化して習慣的になってしまいます。それだけではなく、言葉や文字を忘れてしまって、会話がとぎれたり、文章が書けなくなってしまうのです。そのうちこのエッセイも全篇平仮名だけになってしまうかも知れません。いいえ、その兆候はすでに始まっています。
この「週刊新潮」の読者は僕の年齢とダブッテいるので、そのままでいいですよ、と担当編集者のTさんはいつも同じことをいうのですが、そうかな? 僕の年齢になるとほとんどの人が目も見えなくなって、眼鏡を掛けても、週刊誌の1頁も読めないんですよ。読者層はもっと若いはずです。僕の年齢になると社会的現実などにはさほど興味がないのです。でも、毎週の記事はかなり、過激であったり、次々と変化する社会問題を取り上げて、時には難解な論評も掲載されているじゃないですか。
もう、僕の歳になると、世の中の出来事についていけなくなるのです。はっきりいってどうでもいいと思うのです。立ったり座ったりが大儀になっているのに、トランプもプーチンもゼレンスキーも関係ないんです。それより、無事にお雑煮を咽につめないで食べられたか、今日は上手く靴が履けたか、妻の言葉がちゃんと聞こえたか、こんなことが重大問題なんです。
でも中には全く年齢を感じさせない人が難解な社会的問題について語っていたりします。凄いなあと思いますが、僕と人種の違う人なんでしょうね。
僕は画家なので絵が描ければ別に他のことができなくても、知らなくてもいいんだ、と開き直っています。でないと生きていけませんからね。まあ、その内賞味期限の切れた人間として、このエッセイもいずれ消滅するのかも知れません。
明日は、定期診断で病院に行きます。どういうわけか僕は昔から病院に行くのが楽しみなんです。心配で行くのではないのです。3年前に急性心筋梗塞をやってからは毎月様子を診てもらって、身体の情報を聞かされるのです。以前に書きましたが自分の身体の情報を知ることは自分を知るという意味では哲学なんです。なので、明日は哲学の日です。月1回の哲学の日です。
今、一番必要とするのはいつでも会える同年代の茶飲み友達です。本当はこんな友人と政治論や、国際問題や、文化論など交すのではなく、将棋か碁でもしたいところです。
現代美術の親玉みたいな芸術家のマルセル・デュシャンという人は、公園でいつもチェスばかりしていました。そしてチェスの合間に美術作品を制作して、また公園に出掛けてチェスをするという実に優雅な理想的な芸術生活を送りました。
ガツガツ仕事をする人ではなく、一生怠けながら現代美術界を根底からひっくり返すような、批評家の口を閉ざしてしまうような超人的芸術家で、その後、彼を越えた芸術家はひとりも出ていません。
彼に勝つためには、物を創るのではなく、むしろ人生を無為に生きること、これしかないように思います。何もしない芸術家です。
彼は脂が乗ってからは絵を創ることを止めて、お店で売っている商品を買ってきて、例えばスーパーで便器を買ってきて、それに一切手を加えないで、商品をそのまま、画廊の床にドンと置いたのです。つまり、レディメイドをそのまま芸術にしてしまった人です。
人間でいえば何の役にも立たない作品を創った、いやどこかで買ってきた、いやどこかで拾ってきた、全く人を馬鹿にしたような作品を「提示」しただけの芸術家です。
このデュシャンのやったことと、人間の老化がどこかでつながっているように思うんですが、どう結びついているかはわかりません。なんだかわからないけれど、老化芸術です。
人間も老化がどんどん進行するとデュシャンの作品みたいに、老人という意味合いの芸術作品になっていくんですかね。ようわからんケド。


