出演作を見ても「はまり役だっただけ」と言っていたが… 山田和利さんが息子・裕貴さんに抱いていた“本当の思い”

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 物故者を取り上げてその生涯を振り返るコラム「墓碑銘」は、開始から半世紀となる週刊新潮の超長期連載。今回は8月16日に亡くなった山田和利さんを取り上げる。

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けがに苦しんでも諦めずに再起

 山田裕貴さんは2023年のNHK大河ドラマ「どうする家康」での本多忠勝役をはじめ、引く手あまたの活躍を続けている俳優だ。

 18年、裕貴さんはナゴヤドームで中日対ヤクルト戦の始球式に登板。投球を終えた彼は涙ぐみ、周囲は驚く。「野球を諦めて俳優を目指してからの夢が、いつか始球式に登板することでした」と、その胸の内を語った。ユニフォームの背番号30は父の山田和利さんが中日の選手時代につけていたもの。父は憧れであり、巨大な壁でもあった。

 和利さんは1965年、名古屋市生まれ。東邦高校から83年のドラフト会議で中日に4位で指名されて入団。1位指名の藤王康晴に注目が集まったが、俊足で守備が巧みな好選手だ。

 入団3年目の86年、1軍に初出場。88年にはサヨナラ安打など要所で光るプレーを見せる。当時の星野仙一監督に、主力ではないが重要と高く評価された。

 翌89年に結婚、1男1女を授かる。90年に誕生したのが裕貴さんである。

 91年、長嶋清幸とのトレードで音重鎮と共に広島に移籍。翌年には故障した正田耕三に代わり出場機会が増え、95年になると打率2割7分、12本塁打、53打点と打撃でも頭角を現す。

 広島の安仁屋宗八さんは思い出す。

「真面目でおとなしい。もの静かで地味なぐらいです。手堅い守りで投手にすれば心強い。足も速く、打撃もしぶとい。カープに来て花を咲かせたと思います」

 広島の金石昭人さんも振り返る。

「マルチな守備ができ、勝負師でもある。でも目立とうとしません。プレーと一緒で余計なこと無駄なことをしない。誠実なんです」

 96年、再び中日に移籍、同年に故障により現役引退。13年の現役生活のうち、わずかでも1軍に属していたのは8年。何度けがに苦しんでも諦めずに再起を果たした。その成績は366試合に出場し、227安打、打率2割6分2厘、22本塁打、102打点。

 97年以降、中日と広島で内野守備や走塁、打撃コーチを務め、両球団でフロント入りもしている。

野球を辞めた息子にかけた言葉

 和利さんはわが子に野球を勧めたわけではなかった。裕貴さんは小学生から全国レベルの強豪チームに所属。だが限界を感じ、高校を前に野球を辞めてしまう。

 その時、和利さんは「自分がやると決めたことをなぜ最後まで続けなかったのか」とだけ問うた。一転、俳優を志したのは父が家族そろってテレビ番組を見るのが好きだったからだ。

 高卒後上京した裕貴さんはアルバイトで自活、下積みの辛酸も味わう。覚悟と心の支えは父の存在。11年、「海賊戦隊ゴーカイジャー」で注目された時、和利さんは広島のコーチだった。

 広島の外木場義郎さんは思い返す。

「選手の状態をくみ取れる丁寧なコーチで信頼された。息子さんが有名な俳優だと人づてに聞こえてきました。本人は何も言いません」

「自慢なんて全くしない。私が経営している東京の鉄板焼きのお店に親子で来てくれたことがあります。あいさつの意味だったと思う。自然に気遣う清々しさがある。息子さんも親父譲り。お互いの仕事を尊敬し、迷惑をかけてはいけないと感じていた」(金石さん)

 21年、コーチを勇退。

 8月16日、60歳で逝去。

 裕貴さんが26日に公表した文面では、約4年前にがんを患い闘病していたが、故人の遺志で公にしなかったことを丁重にわびている。

 息子の出演作を見ても面と向かって褒めず、「はまり役だっただけだから、周囲に感謝しなさい」と言う一方、娘には「裕貴はよくやっている」と告げていた。

 子供たちにも寡黙だったが“自分の頭で考えなさい”と幼い頃から諭していた。役の人物像を徹底して考え抜く裕貴さんの演技姿勢も父の言葉のたまものだ。

週刊新潮 2025年9月11日号掲載

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