名門ユースでは後の“超人気俳優”との出会いも…インドネシアリーグで活躍する日本人選手が明かす「プロとして生きる矜持」
当時J3の富山に入団もわずか1年で解雇
かくいう南部選手も、トップチームへの昇格は果たせず。高校卒業後は中京大学に進むことに。その後、限られた選択肢の中から当時J3リーグのカターレ富山(現J2リーグ)に入団し、プロ選手としてのキャリアをスタートさせたが……。間もなくして厳しい現実を思い知られることとなる。
「入団が決まると、チームから『人数が足りていないDFをやってほしい』と言われて。これまで一度も経験のなかったサイドバックや、センターバックとしてプレーすることになりました。当時のチームの事情を理解して、自分なりに全力で頑張りましたけど、今振り返ると、思い通りのプレーはあまりできなかったかな……」
だがDFとして、これまで自分がプレーしていたFWの選手と対峙する時間は、南部選手のその後のキャリアに大きな影響を及ぼした。
「DFとしてプレーする時には、FWをやっていた時の自分が相手にされて嫌だったことをするように心がけていました。異なるポジションを任された経験でプレーヤーとしての視野も広がったと思いますし、とにかく練習量の多いチームだったので、試合に出られない中でも選手としての基礎を築くことができました。とにかくプロの選手として、成長させてもらった時間だったと思います」
月給30万円から飛躍のきっかけを掴んだ
しかし、南部選手が感じていた手応えとは対照的に、わずか1シーズンで富山との契約は終了。その後の3年間はサッカーの指導者として生計を立てながら、JFLのブリオベッカ浦安(現、ブリオベッカ浦安・市川)、現在はJ3に属するFC大阪でプレーを続けた。
「JFL時代も名目上はプロ選手として契約をさせていただいていましたが、月収に換算すると30万円ほどだったと思います。多くの選手が他の仕事とサッカーを掛け持ちしていたので、僕も『サッカーを見る視野が広がれば良いかな』という思いから、空いている時間に、指導の仕事を引き受けることを決めました」
指導者として、子どもたちのサッカーを俯瞰的に見た経験は、南部選手にプラスの影響を及ぼした。
「初めてグラウンドの外でサッカーに触れてみて、監督が求めているプレーが的確にできる選手は、年齢問わずに重宝されることがわかりましたし、その期待を上回るプレーができれば、自ずと上のステージにいけるんだろうなと気付かされて、その後のサッカー人生においても大きな指針になりました」
南部選手は26歳の時に、活躍の場を求めて東南アジアのタイへと渡り、トライアウトを受験。3年間タイでプレーした後にインドネシアに渡り、今季で4年目を迎えた。
さまざまな紆余曲折経験し、活路を見出してきた南部選手。「本当に運に恵まれていた」と話す競技生活を支えてきたのは、強い精神力に他ならない。
「技術ももちろん大切ですが、技術に優れた選手はたくさんいますし、そこで決定的な差をつけるのはなかなか難しかったりもする。個人的には技術よりも、さまざまな壁にぶつかった時の冷静な思考や、それを乗り越える強い気持ちの方が何倍も重要だと思っているんです」
今年6月には南部選手も通った八王子市立山田小学校で、EU JAPAN SPORTS と協業し、後輩たちを前に講演会を実施。
「目標に向けて一歩踏み出すきっかけを作りたい」という思いが込められたイベントでは、南部選手が異国の地で培ってきたメンタルの整え方や考え方、そして努力を続ける大切さなどが語られ、双方にとって有意義な時間を過ごした。
「プロの選手として、日々のプレッシャーを感じながら試合に出続けるには、それなりの精神力が求められますし、地道な練習や自分のきちんとした考えなくして、苦しい局面を乗り越えることはできないと思います。現時点では無所属です。いくつかのクラブからの打診を断り、無所属選手として次の移籍期間での移籍を決めました。ここで諦めはせず、また一つ壁を越えて新しくストーリーを作っていこうと思います」
後輩たちの前で、プロ選手として生きてきた矜持を語った南部選手は、これからどのようなプレーでファンを魅了するのか。円熟味を増したその勇姿に注目だ。(第2回了)。
第1回【「チームの稼ぎ頭の年俸は1億円くらい」…インドネシアで活躍「南部健造」選手が明かす“凄まじいサッカー熱” 地元選手には“追っかけも…】では、インドネシアのサッカーリーグで活躍する南部健造選手に、現在、人気爆発中というインドネシアのサッカー事情について詳しく話を伺った。
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