「山口淑子」から中国人歌手・女優「李香蘭」、政治家「大鷹淑子」へ…死去から11年、いまだ忘れ得ぬ数奇な一生
ロシア人女性との奇縁
「李香蘭時代」が終わっても、彼女の人生はドラマチックだった。
日本の敗戦後、祖国を裏切った中国人として軍事裁判にかけられたが、日本国籍が証明されたため国外追放に。この日本国籍の証明が実現したのは、少女時代に知り合ったユダヤ系の白系ロシア人、リューバ・モノソファ・グリーネッツさんの尽力による。
リューバさんは少女時代の山口さんにマダム・ポドレソフの歌唱レッスンを勧めた人物でもあった。歌手「李香蘭」が生まれるきっかけを作った人物が、後に「山口淑子」の命を救うというまさに奇縁である。
帰国後は山口淑子として映画界に復帰したが、活躍の場は日本国内に留まらなかった。ハリウッドとブロードウェイへの進出、チャップリンら有名俳優との交流、彫刻家のイサム・ノグチさんとの結婚、離婚。果ては共産党やCIAのスパイ説まで流れたが、彼女は自身の〈複雑な半生の副産物だとあきらめていた〉(自伝より)。
日中国交正常化で涙を
離婚後の1956年5月、山口さんは「シャーリー山口」として米国で舞台「シャングリラ」に出演。だが、残念なことに打ち切りが決まる。1958年に再婚した外交官・大鷹弘さんは、この時に傷心の山口さんを支えた人物だ。周囲の反対を押し切っての結婚だったため、山口さんは女優としての自分を封印し、“外交官の妻”に徹することを選んだ。
ワイドショー「3時のあなた」(フジテレビ)の共同キャスターとして本格復帰した1969年からは、ジャーナリストとして海外取材も担当。1972年9月の日中国交正常化では、日中共同声明の調印式を北京から中継した。自伝で当時の感情をこう綴っている。
〈私の瞼には、時局に翻弄されつづけた“李香蘭”の姿が去来し、ニュースキャスターという立場も忘れて、こみあげてくるものをおさえることができなかった〉
1974年には参院選に当選し、自民党議員「大鷹淑子」として政界へ進出。1992年に政界を引退した。死去はそれから22年後のことである。





