「山口淑子」から中国人歌手・女優「李香蘭」、政治家「大鷹淑子」へ…死去から11年、いまだ忘れ得ぬ数奇な一生

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「歌う美人女優、李香蘭」として大スターに

 山口さんは1920年に旧満州(現中国東北部)で生まれた。九州出身で、満鉄(南満州鉄道)で中国語を教えていた父と、同じく九州出身の母のもと、ごく普通の少女として育った彼女の運命を変える出来事は、満州事変の2年後、1933年に起こった。

「少女時代、病弱だった彼女は健康のためにマダム・ポドレソフというオペラ歌手について歌曲を習うようになります。そしてある時、マダム・ポドレソフの公演の際に前座で歌い、それが奉天放送局員の目にとまり、李香蘭の名で1933年に歌手デビューしたのです」

 と、先の藤原氏。

「さらに1938年には、満州国と満鉄によって作られた“満州映画協会”(満映)にスカウトされ、“歌う美人女優、李香蘭”になった。もちろん日本人ではなく、中国人として、です」

 ほどなく大スターとなった彼女は、中国人のフリをしなければならないことへの罪悪感に苛まれ続ける。それを明かせぬまま終戦を迎え、1946年に引き揚げ船で帰国。その時、偶然にも船内のラジオから流れてきたのは、自身が歌う「夜来香(いえらいしゃん)」のメロディーだった。

〈山口淑子にもどった私は「さようなら、李香蘭」とつぶやいた。「さようなら、私の中国」〉(自伝より)

外交官夫人、キャスター、参議院選挙

 戦後は“女優・山口淑子”として日本や米国の映画に出演。1951年、日系米国人の彫刻家イサム・ノグチ氏と結婚するも、4年あまりで離婚。1958年に外交官の大鷹弘氏と再婚したのを機に、女優業を引退した。

 以後、外交官夫人に専念していた山口さんに再び転機が訪れるのは、再婚12年目の1969年。フジテレビの情報番組「3時のあなた」のキャスターに抜擢されたのだ。さらに1974年には参議院選挙に出馬して当選。それから3期18年、議員を務めた。夫の大鷹氏は2001年に肺炎で死去。子供はなかった。先の藤原氏の話。

「まさに“激動の昭和の申し子”でした。本当に数奇な運命を歩んだ人だと思います。彼女は生涯に、山口淑子、李香蘭だけではなく、女学生の頃には父の友人の養子となって潘淑華、最初の結婚でヨシコ・ノグチになり、最終的には大鷹淑子と、数多くの名前を名乗りました。名前の数だけ沢山の人生を送ったとも言えます」

 彼女は自伝に書いている。

〈激動の半生と言われるのだけれど、正直なところ私は、与えられた状況で与えられた役割を果たすのにせいいっぱいだった〉

(以上、「週刊新潮」2014年9月26日号「日本と中国の狭間に揺れた数奇な運命『山口淑子』の棺」より)

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