24時間テレビは「かわいそうな人」じゃないと走れない? 横山裕とやす子の境遇を比較する気持ち悪さ

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「つらい過去」がないとダメ? タレント自身の境遇とチャリティー精神を結び付け過ぎる危うさ

 チャリティー活動に参加する理由は、人それぞれであるべきだ。だが「つらい過去を持つからこそ寄り添える」という筋立ては、あまりに短絡的である。本来24時間テレビの理念というのは、チャリティー精神は限られた人にだけあればいいというものではなく、広く市井に根付いてほしいというものではなかったか。あまりにランナーの境遇を強調し過ぎては、「普通に育ってきた人ではチャリティー精神を持てないのか」「“かわいそう”でなければ走る資格がないのか」といった、ゆがんだ受け止め方をされかねない。

 一方で、芸能界には自身の境遇とは関係なく、独自の信念でさまざまな支援活動を続けている人たちも多い。例えばMISIAさんは家族全員が医者、紗栄子さんは経営者の両親の下に生まれた「お嬢様」だが、芸能活動の傍ら動物保護、被災地支援に尽力していることは有名だ。紗栄子さんは2人のお子さんを持つ「シングルマザー」だが、その属性を前面に出して活動しているわけでもない。

 彼女たちの活動には「境遇の物語」など不要だ。偽善者とたたかれても支援を続ける信念と行動力は、メディアの力がなくとも静かに共感の輪を広げている。いや、「お涙頂戴」の演出をするメディアが入らないからこそ、「本物」という信頼を得ているのかもしれない。

寄付の目的別の企画の功罪 番組の未来と「感動の消費」を超えて

 とはいえ、「マラソン子ども支援募金」という形で使われ方がはっきり分かる企画に対する好意的な声は多い。かつて系列テレビ局員による寄付金着服事件があっただけに、募金の使い道が明確であることはそれだけ安心感を生む。一方で目的別の企画というのは、それだけランナー自身の半生との合致度が問われる。今後も何らかの形で「児童養護施設」に関わりがある人選をするとなると、やはり「お涙頂戴」に意向が傾いていってしまうのではないだろうか。

 24時間テレビが半世紀近く続いてきたのは、多くの人が「人の善意を信じたい」と思ってきたからだろう。募金額や視聴率という成果は無視できない。だがその一方で、チャリティー精神を「出演者の境遇による演出」に過剰に依存することは、タレント本人への負担や視聴者の落胆を招き、結果的に番組の寿命を縮めかねない。

 テレビ業界全体が逆風にさらされる中、24時間テレビもまた「感動のつくり方」が問われる時期に来ている。泣ける境遇を掘り起こすのではなく、チャリティーそのものをどう新しい形で提示するのか。番組が次に走らせるべきなのは、タレントではなく「理念」そのものだ。

「かわいそうな人探し」が加速するのではなく、「誰もが支え合える仕組み」をどう走らせていくのか。視聴率や募金額以上に求められるのは、その問いへの答えなのかもしれない。

冨士海ネコ(ライター)

デイリー新潮編集部

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