子孫に影響を与える“徳の積み重ね”とは? 横尾忠則は「与えられた仕事に無我無心になればいいということ」

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 子供の頃、両親からよく聞かされていたことがありました。

「今、こうして、幸せに生きているのは先祖が徳を積んでくれてたやさかいやで」と。

 小さい僕には何んのことやらさっぱりわからなかったけれど、この謎めいた呪文のような言葉は大人になるまでズーッと気になっていました。

 何んだか宗教的なことを言っているように聞こえましたが、僕はこのことについて一度も質問したこともなく、ただ、「ヘェーッ」と思って生きてきたように思います。

 そしてこの「徳を積んでくれてた」という言葉と両親の信心深さはどこかでつながっているように思えます。何しろ、家中にはありとあらゆる神仏が祀られていたからです。父は呉服商を営なんでいる商売人だから、どこか信仰と結びついていたんだと思います。

 両親もなくなり、わが家には形だけの祭壇と仏壇があるけれど、お祈りしたりお参りの真似ごと程度はしたことはありますが、僕は無宗教としかいいようがありません。

 だけど、「先祖の徳」という言葉だけは老齢になった今も何んとなく気になっています。というより、年齢と共にこの言葉の意味がわかってきたような気がします。

 というのは、僕は子供の頃から、他人が思うほど努力もしておらず、野心、野望に振り廻された経験もあまりなく、常にボンヤリと過ごしてきました。そのわりに、なんとかここまできたのは、これが先祖の徳によるものかなと想像しています。

 そして徳というのが運命なのかな、とぼんやり考えます。徳と運命の関係はよく知りませんが、先祖の徳というくらいなので、先祖という他力によるものらしいと何んとなくぼんやりわかります。

 だけど、先祖の徳だっていつまでも効力があるとは思えません。徳にも賞味期限があるような気がします。先祖の徳を使い果たしてしまうと、次は自分が自力で徳を積まないと、苦の多い人生になるような気がします。

 人間には努力や運命の力によって、徳が生きてくるらしいのですが、この徳のメカニズムは科学的に解明できません。

 人に親切にしたり、人に優しくしたりすることも徳の一環だと思いますが、この場合、意識的ではない、無意識的な行為を徳の世界では隠徳というそうで、この隠徳こそが徳の本領らしいのです。計算された徳は、むしろ徳を施した人にとっては害悪になるのですが、その結果がすぐ反映されるわけではないのです。

 よく芸能人や作家の中でも、徳を公的に行う人がいます。メディアやカメラマンを呼んで、その立合いのもとで徳的な行為を公開する人たちです。これはその本人にとって益になるどころか害になると言います。一方で、隠れてこっそりと自己主張をしない行為、つまり隠徳こそが本当の徳らしいのです。

 徳とは無心の行為だと言います。徳を行った意志さえない行為、それを隠徳というのです。

 このように徳について考えている時、以前買ったままで手つかずになっていた本の中に、葉室頼昭という春日大社の宮司さんが徳について書かれた神道の本を見つけました。なぜ、この本を買っていたのかが思い出せないのですが、二十数年後に読むことになったわけです。本書には、両親が毎日のように神仏や先祖を祀っていることも大いなる徳であると書いてありました。

 すると先祖の徳が終ったあと、両親による徳によって僕や家族が今日まで生かされていたということになるわけです。しかし、あまり徳のご利益ばかりを主張すると誰もが徳に頼って努力をしなくなり、社会の繁栄に悪影響を及ぼしかねないという理由で、戦後の教科書から道徳教育が廃除されていきました。

 この本で特に強調されているのが隠徳です。人間の徳の中でも隠徳ほど重要なものはないと書かれています。徳をひと言では説明しにくいのですが、人間の理性の中で最高のものが徳であり、その中でも特に愛情や見返りを求めない隠徳が強調される。このように積み重ねた隠徳が、やがて子孫へ影響を与えていくというのです。

 以前、占い師が僕の手相を見て、徳を積んでいますね、と言いました。そんな心覚えがないので、「へぇー」と思っていたら、知らず知らず社会に貢献しているというのです。自分では社会貢献などした覚えがないと言ったら、仕事を通して、その仕事によって社会に歓びを与えているといいます。僕の仕事は絵を描くことです。すると絵を描いて、発表する、このことがすでに徳になっているらしいのです。

 つまり全ての人がなんらかの形で徳を積んでいるということになります。自分に与えられた仕事に何も考えずに無我無心になればいいということではないでしょうか。

横尾忠則(よこお・ただのり)
1936年、兵庫県西脇市生まれ。ニューヨーク近代美術館をはじめ国内外の美術館で個展開催。小説『ぶるうらんど』で泉鏡花文学賞。第27回高松宮殿下記念世界文化賞。東京都名誉都民顕彰。日本芸術院会員。文化功労者。

週刊新潮 2025年8月28日号掲載

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