ウトウトしていたら「精霊を名乗る老人」が現れて… 横尾忠則が体験したちょっと怖い話

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 南アメリカ大陸のど真中に世界最大の大湿地帯パンタナルがある。このパンタナルは日本の本州がほぼすっぽりはまり込んでしまうほどの広大な地で、見渡す限り、水没した平原が続いていて気が遠くなる。こんな沼や水たまりには、ワニやアナコンダ、カピバラ、そしてピラニヤがいる。

 近くの空港からバスでパンタナルまでは2時間もあれば着く、なんて騙されて、結局8時間ぐらい真暗闇のデコボコの湿地帯の道を走って、夜中の4時頃にパンタナルに着いた。

 そこには少し大きめの掘立小屋のような平家の、名ばかりのホテルがあった。僕に与えられた部屋には蚊が沢山いて、寝るまでの十数分間、スリッパで壁に止まっている蚊退治。体力の限界の中で蚊との格闘に疲れ切ってしまい、やっとベッドの中にもぐり込んだ。窓からは煌々と月の光が差していたので電気を消しても部屋は月明りで青白く光っていた。

 8時間もバスで揺られて、身体中が痛かったが、ベッドの中で身体が伸ばせたのは不幸中の幸いだった。ベッドにもぐって、ウトウトしかけた頃、突然、何者かによって起こされた気がした。ベッドから上体を起こした時、暗がりの中に、ぼんやり光るものが見えた。足元の上、人が立った位置より、さらに高い。天井よりは低いが、そこに赤と黄の横縞のニット帽を被った人の顔が浮いている。胴体はない。顔だけである。

 よく見るとそのニット帽の男は老人である。顔の色は濃い褐色で、宙から僕を眺めている。あり得ない状景だが、僕は不思議と恐怖が襲ってこない。こんな大湿地帯の中にポツリと建っている粗末な木造の、ホテルとはいえない長屋の一室で、僕はこの奇妙な人物と対面している。

 やがて、宙空に浮いているニット帽の老人が僕に、声にならない声で話しかけてきた。この男の口は閉じたままで、口から言葉は発していない。彼の言わんとすることは音声ではなく、僕の頭の中に直接語りかけてくる。これをテレパシーというのであろうか。彼の話す言葉の内容を読者のために通訳すると次のようになる。

 先ず最初に英語でGood eveningと語った。と同時に、その英語のスペルが、まるでイルミネーションのように光りながら、一字ずつ、単語が並んで僕の顔の右から頭の後をぐるっと廻るようにして、左の方に抜けていくのである。

 そして、次にその老人は自己紹介をした。「私はかつて、この土地に住んでいたインディオの精霊です。ようこそ、私の土地にいらっしゃいました。あなたが、こちらにいらっしゃる間は、あなたの身の安全をお護りいたします」と語ったかと思うと、宙の顔は元の闇の中に吸収されるように消えてしまった。

 老人は別に日本語で話しているわけではなかったのに、僕には不思議と日本語で話の内容が理解できたのだった。

 宙に浮かんでいたインディオの精霊という赤と黄のニット帽の老人は、もうそこにはいなかったが、僕は不思議な安堵感を抱いたまま、起こしていた身体を横にして再びベッドの中にもぐって、そのまま朝までぐっすり眠ることができました。

 編集者のTさんから、「今年もそろそろ盆が近づきます。去年のように、横尾さんの『遠野物語』みたいな話を今年も書いて下さいよ」と、リクエストがあったので、今回は海外版「私の遠野物語」を紹介することにしました。Tさんはもっと怖い怪談話を期待されたかと思いますが、今回は全く恐怖のない、むしろファンタジーのような怪談話になってしまいました。

 この話には続きがあります。翌日、近くの民族博物館を訪ねました。そこには昨夜見たニット帽と同じものを被った人達の集団写真が展示されていて、僕は思わず、「この帽子だぁ」と叫んでしまいました。

 その日の午後にパンタナルを引き上げるためにチャーター機のセスナが3機、われわれを迎えに来てくれましたが、大変な嵐になってしまって、セスナが飛べない状態になりました。でもこのセスナに乗らなきゃ、空港で待機している旅客機に間に合わない。

 誰も嵐を恐れてセスナに乗ろうとしないが僕は率先して最初の機に乗った。セスナは木の葉のように揺れたけれど、昨夜インディオの精霊が、「あなたの身の安全をお護りいたします」と言った言葉を信じていたので、大揺れに揺れたけれど、なぜか、その揺れが快適でありました。あとの2機は相当激しい飛行になったらしく、空港に着くなり、機外にころげ落ちたり、嘔吐する人がいて、非常に怖い経験をしたと言っていました。

 Tさんは毎年盆には一本、このような話を書いて下さいとリクエストされているので、また来年も書かせていただきます。

横尾忠則(よこお・ただのり)
1936年、兵庫県西脇市生まれ。ニューヨーク近代美術館をはじめ国内外の美術館で個展開催。小説『ぶるうらんど』で泉鏡花文学賞。第27回高松宮殿下記念世界文化賞。東京都名誉都民顕彰。日本芸術院会員。文化功労者。

週刊新潮 2025年8月14・21日号掲載

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