【べらぼう】江戸版「SNS」と「石破おろし」で田沼父子は悪者に仕立て上げられた
開国をめざしていた田沼父子
『べらぼう』の第28回で一橋治済は、「主殿(意次のこと)は放っておいても老い先そう長くはない。嫡男を亡き者とすることこそ、田沼の勢いを真に削ぐこととなる」といい、「そう考えたのかもしれぬなぁ、佐野は」と取ってつけたように加えた。
先に引用したオランダ商館長ティチングの記述は、こう続く。高齢の意次は「間もなく死ぬ」が、息子は「まだ若い盛り」で「改革を十分実行するだけの時間がある」。そんな息子を奪えば「それ以上に父親にとって痛烈な打撃はあり得ないはず」なので、「息子を殺すことが決定したのである」。『べらぼう』での治済の台詞とピタリと重なる。
実際、意知の死は田沼時代の終わりのはじまりで、3年余りのちの天明6年8月、将軍家治が死去すると、意次は老中辞職に追い込まれ、さらに謹慎を命じられ、神田橋の屋敷や2万石を召し上げられた。さらに翌年秋には、残る3万7000石の所領のうち1万石を残して没収された挙句、蟄居を命じられ、その数カ月後に無念の死を遂げる。
『べらぼう』では田沼父子が蝦夷地(北海道)を幕府直轄領にして開発し、貿易することをめざした。実際、田沼意次は開国を考えていた。前出の『田沼意次・意知父子を誰が消し去った?』にはこう書かれている。「田沼意次は、安永・天明期における二港開港による開国を目論んでおり、(中略)より大きな収益を求めて海外と貿易しようとしていた。(中略)意次が求めたのは、ペリーより100年早い開国だった」。
ティチングの史料にも、こういう記述がある。「山城守(意知のこと)が若年寄に任命されると、山城守と主殿頭(意次のこと)はいろいろの改革を企てたために、幕府の大官たちの憎しみを買い、また国家の安寧に害ありとして非難を受け、山城守はとうとう一七八四年五月十三日、佐野善左衛門のために暗殺されてしまった。(中略)この暗殺のために、日本が外国人に開放され、日本人が他国を訪問するのが見られる希望はまったく絶たれてしまった」
石破おろしとの共通点
意知斬殺の裏で一橋治済が糸を引いていたかどうかはともかく、治済をはじめとする守旧派が意次を引きずり下りしたことは疑う余地がない。また、老中を辞めさせたのち、治済を筆頭に御三家らが、処分が足りないと主張して、残りの所領を召し上げたうえに、蟄居に追いやった。
この時代、米を中心とする農本主義も、ごく一部の窓口を除いて国を閉ざす体制も、明らかに行き詰っていた。幕藩体制は死に体に近くなっていた。そこに商業資本を導入し、開国を志し、体制を大きく変革させようとしたのが田沼父子だった。
だが、いつの時代も変革者は、体制派から嫌われる。体制派は往々にして井の中の蛙で、自身を取り巻く状況の全体が見渡せないまま、ごく狭い視野でみずからの利益を守るために、改革者の足を引っ張り、つぶそうとする。むろん、その行動が全体の利益につながることは少ない。
いま「石破おろし」が喧しい。石破茂総理が田沼父子のような改革者であるかどうかは意見が分かれるところだが、「石破おろし」に必死な人たちの姿は、あきらかに一橋治済らに重なる。みずからが招いた裏金問題等によって自民党への支持が失われた責任を、石破総理一人に追わせて、自分たちのみそぎも一緒に済ませてしまおうという目論見、といったらいいだろうか。
一橋治済はその後、将軍の父として権勢をほしいままにした。だが、日本は改革のチャンスを失い、幕末に欧米列強との力の差を思い知らされる。守旧派の反撃によって失われたものはあまりにも大きかった。だが、このように歴史から学べることも大きいのである。
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