「芸人」として「ラサール石井」はどうだったのか 重宝された「インテリキャラ」「裏回し」

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社民党で初当選

 7月20日に第27回参議院議員通常選挙の投票が行われ、社民党から比例代表で立候補していたタレントのラサール石井氏が初当選を果たした。社民党は今回の選挙で1議席のみの獲得にとどまったが、得票が有効投票の2%に達したことで公職選挙法上の政党要件を満たした。崖っぷちの戦いを強いられた中で、知名度の高いラサール氏の尽力もあって、何とか政党要件を失わずに済んだ。

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 ラサール氏がお笑いトリオ「コント赤信号」の一員として芸能活動を始めたことは、年配の人にとっては常識かもしれない。だが、それよりも下の世代の人は、ラサール氏がそもそもどういうタレントだったのかということを知らない。彼のこれまでの歩みと、芸人としての功績について改めて振り返ってみることにしたい。

 ラサール石井氏は1955年、大阪に生まれた。子供の頃からテレビや演芸が大好きで、青島幸男に憧れて放送作家を目指そうとしていた。高校受験のとき、地元のナンバーワン進学校である灘高校に落ちてしまい、鹿児島のラ・サール高校に通うことになった。これがのちの芸名の由来となる。そこから東大を目指したが、親元を離れて勉強への集中力も薄れてしまい、結局は早稲田大学に進学した。

 大学では、ミュージカル研究会に所属して脚本・演出・出演を務めながら、バイトで放送作家の仕事もやっていた。そんな日々の中で、劇団「テアトル・エコー」の養成所に入った。そこで出会ったのが渡辺正行と小宮孝泰である。芝居の練習のつもりで自主的にコントを演じたりしていたところから、この3人による「コント赤信号」が誕生した。

 その後、渋谷の道頓堀劇場というストリップ劇場から声がかかり、プロとして正式にデビューすることになった。1980年に漫才ブームが始まり、新しい若手漫才師が次々に現れて、瞬く間にスターへの階段を駆け上がっていった。コント赤信号は漫才ではなくコントが専門だったが、このブームに乗って一躍売れっ子になった。

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