【べらぼう】宮沢氷魚「田沼意知」を斬った佐野政言は生田斗真「一橋治済」に操られていたのか

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オランダ商館長の証言

『営中刃傷記』によれば、政言はほかに17箇条の口上書を書いていたという。その内容は田沼意次が私欲に走ったとか、息子の意知を名家を差し置いて若年寄に抜擢したとか、田沼家の卑しい家臣の子女を旗本と縁組させたとかいうもの。要は、田沼意次の失脚後にでっち上げられた田沼の悪行が並べられたイメージで、死を賭した刃傷事件の動機としては、腑に落ちないものがある。

『べらぼう』第27回では、政言が周囲から、意知があえて米の価格を引き上げて私腹を肥やし、吉原で遊んでいる、という噂を耳にする。そんなデマに踊らされ、義憤に駆られた面もあるのかもしれない。だが、動機としては弱い。

 それより気になるのは、長崎のオランダ商館長だったイサーク・ティチングの証言である。この人物の書簡をまとめた史料には、次のように書かれている。秦新二氏・竹之下誠一著『田沼意次・意知父子を誰が消し去った?』(清水書院)から、要約を交えて訳文を紹介する。

「この殺人事件に伴ういろいろの事情から推測するに、もっとも幕府の高い位にある高官数名が事件にあずかっており、また、この事件を使嗾[そそのかすこと]しているように思われる」。原因は田沼父子が恨まれていたことにあり、高齢の意次は「間もなく死ぬ」のに対し、息子は「まだ若い盛り」で「改革を十分実行するだけの時間がある」から、「息子を殺すことが決定したのである」。

 ところで、先述の意知が襲われた場面だが、しばらくだれも意知を助けなかったことに違和感を覚えなかっただろうか。それについても、ティチングは書いている。

 若年寄たちは閣議後、立ち止まって話を交えることが多いが、「その日はばらばらに分かれていた」。そして、「三人(の若年寄)は急いで歩き去ったので、山城守はかなり離れた後ろに取り残された」。意知が襲われたのち、「善左衛門といっしょに勤務していた番士たちや、中の間及び桔梗の間の番士たちが物音を聞きつけてやって来たが、しかし、それはどうも相当ゆっくりしたことであったらしく、善左衛門に逃げる余裕を与えてやろうという意図があったと信ずべき十分な理由があった」。

黒幕は生田斗真「一橋治済」か?

『べらぼう』第27回では、匿名の武士がたびたび政言の前に現れ、意知への恨みにつながりうる虚偽情報を伝えた。それを裏で操っているのは、次期将軍家斉の父でもある一橋治済(生田斗真)だという描き方だった。

 先述の『田沼意次・意知父子を誰が消し去った?』でも、田沼意知斬殺は、一橋治済が各方面に縁戚関係や情報網を築いたうえで、裏で糸を引いて行ったという見方が示されている。実際、意知が斬られる現場を目撃しながら、政言を止めさえしなかった人たちは、ほとんどが軽いお叱りで済んでいるという。

 たしかに、田沼父子が政権の表舞台から消え去って一番得をしたのは、将軍の父として権勢をほしいままにした治済だった。それを考えると、彼が黒幕だったという話は、あながち否定できないように思われる。

 佐野政言は埋葬後、墓所に参詣者が殺到し、政言は『べらぼう』第28回のサブタイトルのように「佐野世直大明神」と讃えられるようになった。改革派のホープを消し去った人物が神として讃えられる。それもまた、田沼政治を消し去りたい一橋治済には、都合のいいことだっただろう。すると、「佐野世直大明神」も情報操作の結果なのだろうか。

香原斗志(かはら・とし)
音楽評論家・歴史評論家。神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。著書に『カラー版 東京で見つける江戸』『教養としての日本の城』(ともに平凡社新書)。音楽、美術、建築などヨーロッパ文化にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)など。

デイリー新潮編集部

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