「彼は天才だった」「実はネタ帳を」…40年前に海で亡くなった奇才「たこ八郎」 “笑われていた”のではなく“笑わせていた”素顔
「たこでーす」のセリフでおなじみのお笑い芸人、たこ八郎。1940年に宮城で生まれ、高校時代からボクシングの才能を発揮。一時はリングから離れるもボクシングジムに入り、プロテストに合格した。幼少期に左目の視力をほぼ失っていたため、テストの際は視力検査表を丸暗記したという。1960年11月には日本フライ級王座を獲得した。
ただし、相手に打たれ続けるノーガード戦法によるダメージは大きく、パンチドランカーとなり1964年に引退。現役時代から弟子入りを切望していた由利徹に師事した。以後も助手を務めた作家・団鬼六、撮影現場で知り合った高倉健ら大物との縁が続き、やがて俳優としても知られるようになった。
そんなたこ八郎が急死したのは、今からちょうど40年前の1985年7月24日のこと。飲酒後に海で泳いだ際の心臓麻痺と報じられた。享年44。左目にハンデがあってもチャンピオン、引退後は俳優として名作にも出演と、実はかなりの才能と強運に恵まれていた人物である。その最期に居合わせた飲み仲間の俳優や、ジムの同期だった名ボクサーが明かした意外な素顔とは。
(「週刊新潮」2016年3月10日号「浅い海で溺れた『たこ八郎』の新聞切り抜きとネタ帳」を再編集しました。文中の年齢等は掲載当時のままです)
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典型的なブル・ファイターだった
「まさか『たこ』が海で溺れ死ぬなんて冗談だろうと、信じられませんでした。お酒のせいでしょうね。彼はとにかく飲むのが好きだったから……」
涙ぐみながらこう思い返すのは、元世界バンタム級チャンピオンのファイティング原田氏(72)だ。彼は笹崎ジムの同期生として、たこが亡くなるまで親交を続けていた。
「たこはボクサー時代から酒を飲んでいました。そんなボクサーは他にはほとんどいなかった。それでもチャンピオンになったんだから、彼は天才だったんだと思います」
「歴代最も偉大な日本人ボクサー」と評される原田氏に天才と言わしめたたこは、実際、宮城県の農家に生まれた幼少期に左目を失明するというハンデを抱えながら、1960年にプロボクサーになると、2年後に日本チャンピオンに輝いている。当時、最軽量のフライ級のボクサーだったが、
「ミドル級のボクサーともスパーリングをして、しかも典型的なブル・ファイターだったから重いパンチを受けまくった。その上、毎晩、飲んでいた。そりゃ、パンチドランカーにもなりますよね」
たこちゃんはネタ帳を作っていた
しかし、64年に引退し、同郷の由利徹の門を叩いてお笑いの道に転身すると、たこはこの「負」を「正」に変える。ボクサー時代の後遺症を思わせる呂律の回らない話し方と「ボケっぷり」で人気者となったのだ。行きつけの居酒屋の店名から「たこ」の芸名を付けた彼は、「た、たこでーす」と、自分の名前すら口ごもってしまうほどだったが、これがウケたのである。
その存在の可笑しみで「笑っていいとも!」のレギュラーに上り詰めた彼は、失礼ながら「笑わせる」のではなく「笑われる」芸人の代表のように思われた。その証拠と言っては何であるが、「たこでーす」以外に、彼の「芸」を思い出せる人は、そういまい。
だが、たこの飲み仲間で、溺死現場にも一緒にいた俳優の外波山(とばやま)文明氏(69)はこんな話を明かす。
「赤塚不二夫さんに、『面白いことがあったら、ちゃんと書き留めておけ』と言われて、たこちゃんはネタ帳を作っていました。しかも、書いては消してと、推敲も重ねていた。とはいっても、B5判のノートや10センチ四方のメモ用紙のネタ帳に書いてあったのは、『みっつ醜いあひるの子』だとか、『僕は母の愛情に飢えているんです』だとか、何だか訳の分からないことばかりでしたけどね」
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