「国分太一」降板でMC不在「テレ東音楽祭」 ゲスト「ニューヨーク」に賛否両論の理由

エンタメ

  • ブックマーク

「ダサさ」を見つける芸風

 彼らは主に特定の人物の言動の「ダサさ」を見つけて、それを指摘するという形式のネタを行ってきた。いわば、ダサいか、ダサくないか、という審美眼そのものを売りにしているタイプの芸人であるということだ。

 そんな彼らは、テレビに出るときにも自分たちを「枠の外」に置いて、ほかの人に対して素朴な感想を口にする。イジりたい気持ちはあるが、イジられるのは苦手。それは卑怯なスタンスであるように見えるかもしれないが、実は一般人がテレビを見るときのスタンスと同じだ。

「テレ東音楽祭」におけるニューヨークの2人の発言を読み解いてみると、リアルな視聴者のような目線で、素直に感じたことを口にしているように見える。それこそが彼らの芸風であり、その飾らない感じが面白いのだが、言いたい放題で無責任だと感じる人もいるだろう。この番組における彼らはあくまでも「MC」ではなく「ゲスト」だったからこそ、傍観者のようなスタンスでコメントをすることが可能だったのかもしれない。

 タレントとして一定の「格」があった国分太一に比べると、ニューヨークは活躍の場を広げているとはいえ、大型音楽番組という格式ある場では力不足に見えるところもある。彼らの軽妙なノリが場違いだと感じた人もいるのかもしれない。特に世代が上の視聴者や、出演アーティストに強い思い入れのある人にとっては、その軽さが番組全体の価値を下げているように感じられたとしても不思議ではない。

 一方で、ニューヨークの起用を評価する声も存在する。伝統ある音楽番組の堅さを和らげ、軽妙な空気を持ち込んだ点について「新鮮だった」「笑いがあって良かった」といったポジティブな意見も多く見られた。そもそも「テレ東音楽祭」という番組自体が、他局の音楽特番とは異なる「テレビ東京らしさ」を売りにしてきた歴史がある。その意味では、あえて正統派の司会者ではなくニューヨークを起用するという判断も、テレ東らしい「脱メジャー」志向によるものだと見ることもできる。

 次の「テレ東音楽祭」では、ニューヨークがMCに昇格しているのか、あるいは別の誰かがMCを任されているのか。テレ東ならではのフットワークの軽さで音楽番組に新風を吹き込んでくれることを期待している。

ラリー遠田
1979年、愛知県名古屋市生まれ。東京大学文学部卒業。テレビ番組制作会社勤務を経て、作家・ライター、お笑い評論家に。テレビ・お笑いに関する取材、執筆、イベント主催など多岐にわたる活動を行っている。お笑いムック『コメ旬』(キネマ旬報社)の編集長を務めた。『イロモンガール』(白泉社)の漫画原作、『教養としての平成お笑い史』(ディスカヴァー携書)、『とんねるずと「めちゃイケ」の終わり 〈ポスト平成〉のテレビバラエティ論』(イースト新書)、『逆襲する山里亮太』(双葉社)、『お笑い世代論 ドリフから霜降り明星まで』(光文社新書)など著書多数。

デイリー新潮編集部

前へ 1 2 次へ

[2/2ページ]

メールアドレス

利用規約を必ず確認の上、登録ボタンを押してください。