新庄剛志、三浦大輔、周東佑京…夏の甲子園まであと1歩及ばず、地方大会の決勝で惜しくも敗れた“名選手”

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 夏の甲子園出場をかけた地方大会の熱戦が連日繰り広げられている。プロで活躍した選手の中には、PL学園時代の桑田真澄、清原和博のように1年夏から甲子園に5季連続出場をはたした者もいるが、その一方で、3年間1度も甲子園に出場できず、最後の夏も地方大会決勝で涙をのんだ男たちも少なくない。【久保田龍雄/ライター】

サイクル安打が大きなアピール材料に

 日本ハム・新庄剛志監督もその一人だ。

 西日本短大付時代は、上級生が2階から落とす生卵を割らずにキャッチするという過酷なトレーニングを課せられるうち、プロでもおなじみになった新庄流ジャンピングキャッチを習得した話は、よく知られている。

 1989年夏の福岡大会は、1番センターで出場。新庄は3回戦の明善戦で逆転2ランを放ち、4打点を挙げるなど、毎試合安打を記録し、甲子園まであと1勝となった。

 だが、決勝の福岡大大濠戦では、先発投手が初回に4四死球と制球に苦しみ、一挙4失点。2、3回にも1点ずつ加えられ、0対6と大きくリードされた。

 そんな劣勢のなか、新庄のバットが火を噴く。3回裏、初回の左前安打に続き、左越えソロで反撃の狼煙を上げる。さらに7回に三塁打、最終打席でも二塁打を放ち、4対6で敗れたものの、5打数4安打1打点でサイクル安打を記録した。

 甲子園の夢が破れた試合後、チームメイトたちが涙にくれる中で、新庄は「僕はもう終わったら終わりで、仕方ない。次のこと(海に遊びに行くなど)を考えるタイプだから。悔しさはなかった」と早くも気持ちを切り替えていた。

 そして、決勝戦でのサイクル安打が大きなアピール材料となり、阪神にドラフト5位で入団することになる。

全国トップクラスの剛腕と互角に投げ合ったことで

 DeNA・三浦大輔監督も高田商3年の1991年夏は、エース・4番として奈良大会決勝まで勝ち進んでいる。

 シニア時代の先輩がいたことが縁で、同校に入学。1年秋にエースナンバーを貰うが、練習漬けの日々に嫌気が差し、練習はもとより、学校にも行かなくなった。野球も学校も辞めるつもりだったが、約1ヵ月後、同級生たちが必死に説得して呼び戻してくれた。本人も「みんなに迷惑かけましたけど、本当に周りの人たちに恵まれたなっていうのがあります」と回想する。

 その後、チームはひとつにまとまり、3年春の県大会では準優勝。決勝で谷口功一(元巨人など)の天理に0対4で敗れたが、9三振を奪った三浦は「天理は施設もすごくて、漫画『キャプテン』の青葉学院みたいなイメージ。大きな差があると思っていたが、意外と縮められるのではないか」と確信した。

 夏も決勝の相手は天理だった。ファンの多くは公立の高田商を応援し、まるでホームグラウンドのような大声援を追い風に、3回に1対1の同点に追いつく。

 だが、5回の天理攻撃中に雨で試合が中断したことが明暗を分ける。試合再開後、あっという間に犠飛で勝ち越され、12奪三振の力投も報われず、1対3で敗れた。

 試合の数日後、谷口と一緒に食事をした三浦は、決勝戦の前日、谷口が「負けるかもしれない」と弱気になっていたことを初めて知り、「何だよ、それ先、言ってくれよ。オレは(天理が)格下相手に余裕でやってると思ってたのに」と笑い話になったという。

 そして、全国でもトップクラスの剛腕と互角に投げ合ったことが、ドラフト6位でのプロ入りにつながった。

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