「イチバァーン!」の雄叫びで日本人ファンを魅了 「ハルク・ホーガン」人気を決定づけた「ボクシング映画の金字塔」での好演

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「あのタイプにしては体が凄く柔らかい」

 ホーガンが「ロッキー3」の出演オファーを受けたのは1981年春だった。当時、アメリカではWWEで試合をしていたホーガンは、超人ハルクさながら、パワーファイトが主体。中でも、他には類を見ない、ベアハッグで3人をまとめて持ち上げ、振り飛ばすというムーブを得意としていた。

 それに目をつけ、声をかけたのが、「ロッキー」シリーズの主演にして、脚本、監督(※1は除く)も務めていた、シルベスター・スタローンだった。前述のサンダーリップス役を探していたのだ。

 指定されたスタジオに出向くと、そこには仮設リングがあり、ホーガンはそちらにトランクス姿で上げられる。それは言わばオーディションだった。早速スタローンが、ボクシング・グローブ姿で殴りかかって来る。されるがまま、ホーガンが連打を浴びていると、スタローンは言った。

「違う、違う! 私の動きを止めてみせてくれ! プロレスラーが、どうやって対処するのかが見たい」

 するとホーガンはスタローンのパンチを難なくさばくと、腕を取り、グラウンドに入ってしまった。関節を決めてみせたのだ。スーパースター、スタローンはこの動きに唖然とし、感心しきりといった表情を見せた。そして、自らホーガンのハンマー・パンチを胸に食らい、そのパワーを確認。最後にスタローン(ロッキー)を相手に、挑発するマイク・アピールのテストをおこなうと、スタローンは告げた。

「君に決まりだ」

 実は、スタローンの腕を極めた技術は、新日本プロレスで学んだものだった。ホーガンの自伝に、こうある。

〈俺はスタローンが繰り出したパンチをさばいて、グラウンドに引きずり込んだ。新日本参戦時に培った、本物のレスリング・ムーブだ。新日本のレスラーたちは、いざという時に備えて、“ナイフ”を磨いている。つまりスパーリングでは、総合格闘技の試合で使われるような締め技やサブミッションを練習していて、俺もその手ほどきを少々受けていたわけだ〉(ハルク・ホーガン著『わが人生の転落』双葉社より)

 ホーガンを日本に呼ぼうと見初めたのは、アントニオ猪木だった。ホーガンがWWEに初登場した1979年12月17日、実は猪木も同じリングに出場していた。後日、猪木は、「筋肉マンタイプの選手は、基本、私は好きじゃないんですけどね」と前置きしつつ、ホーガンの印象についてこう語っている。

「先ず、あのタイプにしては体が凄く柔らかかった。あと、体重の使い方が非常に上手くて、感心したんですね」

 実はホーガンがプロレス入りに際して学んだのは、猪木も業師として認めていたヒロ・マツダだった。基本的なレスリング・テクニックは習得していたが、そこに猪木の技術が上乗せされた。猪木の参謀だった新間寿が、意外な姿を目撃している。

「猪木のホテルの部屋にホーガンが来てね。『レスリング・テクニックを教えて欲しい』と言うんだね。猪木もホテルのベッドを動かして、スパーリングを始めた」

 ファンには知られた逸話だが、その姿勢は「ロッキー3」以降も、随所に見られた。来日中はテクニシャン・初代ブラックタイガーに師事して、開場前のリングで手ほどきを受けた。実は多忙な猪木が自分に代わり、ブラックタイガーにホーガンの鍛錬を頼んだのだという。今でも藤波辰爾にホーガンのことを聞くと、「彼はとにかく、素直でしたからね。人のアドバイスを聞き入れる耳を持っていた」という答えが返って来る。

日本から帰るとアメリカでの実力順位が上がる…

 日本マットでの経験をホーガン本人が宝物のように捉えていたことがよくわかるインタビューがある。以下は、現地アメリカで発売された「リングサイド」1983年春号から拙訳である。

 〈――日本遠征が目立つようですが、どの程度行っているのですか?

 この3年間、1年のうちに4、5ヵ月は戦っている。日本のプロレスはアメリカのそれより積極的で、他の競技やアマレスの技術も試合で使われるんだ。それは私にとって、凄く価値のあることなんだよ。日本から帰ると、経験が上乗せされているから、アメリカでのレーティング(※実力順位)が上がるのに役立っているほどなんだ〉

 ホーガンは「ロッキー3」公開年末には、猪木と組んでタッグリーグ戦に優勝。翌1983年の年末も組み、2連覇を果たした。その間には、IWGPの決勝で当の猪木と戦い、ロープ越しのアックス・ボンバーで猪木を場外KOし、伝説の失神事件を起こしている。当時の実況アナウンサーである古舘伊知郎は最初、ホーガンを「甦ったネプチューン」と、海の神にたとえていたが(※なぜ海かというと、古舘がリングを「闘いの大海原」と称すことが多かったため)、この頃にはホーガンの異名は「華麗なる盗人」に変わっていた。ホーガンの技術レベルが目に見えて上がっており、“猪木の技術を盗んだ男”としたのである。同様に猪木とホーガンの絡みでは、何度、以下のフレーズを聞いたかわからない。

「まさに合わせ鏡の闘い!」

 その一方で新間には、好きなエピソードがあるという。

「ホーガンはね、猪木のことを『サー(Sir)』って呼んでたの。『サー・イノキ』って。尊敬していたんだね」

 自身を特集した日本のムックにも、ホーガンは猪木について以下のコメントを寄せている。

〈彼をIWGPで倒し、チャンピオンになったが、正直言って彼を超えたとは思っていないんだ。なぜなら彼は世界一の“ラジカル・スピリット”を持った男だからな〉(「プロレスアルバム(40)」ベースボール・マガジン社より)

 その後、ホーガンはWWEの専属契約選手となり、米マットの顔になって行く。その直前、結婚したホーガンは、アメリカでの結婚式に出席した猪木に、こんな相談をしている。

「実はWWEから専属で誘われているんだ。どうすれば良いだろう?」

 猪木は即答した。

「いい機会だ。ぜひ行きなさい」

 “人生の成功は、チャンスが来た時に、それに乗れるかどうかにかかっている”とは、猪木が最もよく口にしたモットーの1つである。

 2023年10月、猪木は永眠。ホーガンはインスタグラムでコメントを残した。拙訳したい。

〈私のレスリングキャリアの半分は新日本プロレスで過ごした。何年も受け入れてもらい、巡業バスに乗って日本を旅し、トレーニングして、生活して、時には米国人とも戦った。猪木は本当に『ICHIBAN(一番)』だった。安らかに眠れ、マイブラザー、愛してるよ、アックス・ボンバー〉。

「サー(Sir)」とは呼ばなかった。添えられた写真は、2人がタッグを組んだ極めて初期のガウン姿の写真だった。ファイティングポーズを取る猪木の横で、ホーガンは嬉し気に、笑顔を見せている。

瑞 佐富郎
プロレス&格闘技ライター。早稲田大学政治経済学部卒。フジテレビ「カルトQ~プロレス大会」の優勝を遠因に取材&執筆活動へ。近著に「プロレス発掘秘史」(宝島社)、「プロレスラー夜明け前」(スタンダーズ)、「アントニオ猪木」(新潮新書)など。

デイリー新潮編集部

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