「イチバァーン!」の雄叫びで日本人ファンを魅了 「ハルク・ホーガン」人気を決定づけた「ボクシング映画の金字塔」での好演
以下は2004年、米・フロリダにあるハルク・ホーガン邸を訪れた際の、小川直也の述懐である。
【写真を見る】初代IWGP王者になったハルク・ホーガンが「アックス・ボンバー」を猪木に見舞った決定的瞬間!!
「邸宅が、何100メートルもの外壁に囲まれていて、犬小屋ですらロッヂ大なんです。しかもその犬小屋も、冷暖房完備(笑)。敷地の一部は海に面していて、ジェットボートが4台ありました」
今や世界規模のセレブと言って良い“超人”ハルク・ホーガン。1990年代は、アメリカの長者番付(スポーツ部門)の常連だったし、米大統領選ではトランプ大統領の応援演説の目玉として登場している。
そのホーガンの大ブレイクの一因は、人気映画シリーズへの出演だった。43年前のちょうどこの時期、日本でも公開された「ロッキー3」である(1982年7月3日公開)。当時、ホーガンの日本での主戦場は新日本プロレスだったが、まさに同団体でも、映画の封切りに合わせるかのように、ホーガンへの大プッシュがおこなわれていた。しかも、ホーガンの同映画起用には、日本でのキャリアが大きく物を言ったという。
ホーガンがスーパーヒーローへと変遷していく過程を、映画、プロレスの両面から紐解きたい。
「一番」のルーツ
ハルク・ホーガンは1953年、ジョージア州生まれ。父の身長は178cm、母が168cmと、アメリカ人としては小柄な家庭に生まれたが、本人は4800gという、稀に見るジャイアント・ベイビーとして誕生した。その後も体格に恵まれ、1977年にプロレスラー・デビュー。最初はマスクマンとして活躍し、その後も何度か改名をしつつ、現在のハルク・ホーガンに落ち着いたのは、2年後の1979年12月17日、ニューヨークの名会場MSGにおける、WWE(当時WWF)初登場時からだった。
たまたま同じトレーニングジムにヒーロードラマ「超人ハルク」の主演俳優がおり、親睦を経て“ハルク”という愛称を使い始め、WWE入りと同時に、ホーガンの名を授けられた。こちらはアイルランド系によくある名前で、アメリカは人種のるつぼゆえ、同国出身と思わせる選手を欲していた団体側の意向だった。
ハルクの名称宜しく、筋骨隆々の肉体で頭角を現したホーガンは、見た目通りのパワーファイトで、WWEのリングを席捲する。翌1980年5月に初来日し、新日本プロレスで順調にキャリアを重ねたが、本当に日本のファンの心を捉え始めたのは、1982年からだろう。
前年末に外国人エースだったスタン・ハンセンが、新日本プロレスから全日本プロレスに移籍。3月に4度目の来日を果たしたホーガンは、新必殺技アックス・ボンバーを使い始めた。アメリカでも同技を披露し始めたのはこの年の初めからで、本人が言うにはイワン・プトスキーの使う肘攻撃からヒントを得たと言うが、初戦のタッグマッチで藤波相手に披露も、報じる東京スポーツには「ラリアート」と書かれている(3月10日。坂口征二、藤波辰爾vsホーガン、デイビー・オノハン)。曲げた肘を相手のあごにヒットさせる技だが、ハンセンのイメージが残っていたのだ。
だが本人は、「この技は、ラリアートと違い、肘を曲げて打つ」と、ことあるごとに実況アナウンサーらを相手に強調した。発音も正式には「アクス・ボマー(AXE BOMBER)」であるが、日本で使う際は、伝わり易いように技を出す直前に「アックス・ボンバー!」と自ら叫んだ。ハンセン転出を奇貨として、自分が外国人のエースになるのだという意気込みが感じられる。極めつけは、来日3戦目となる3月の藤波辰爾とのシングルマッチ。テレビの生中継に登場したホーガンの着流しのような黒いガウンに、以下の2文字が白く染め抜かれていたのだ。
「一番」
ホーガンが日本のファンから教えられた言葉で、後に代名詞となる「一番」と入ったTシャツは、新日本プロレス外国人勢の常宿である、新宿・京王プラザホテルのお土産屋で入手したという(なお、前出のガウンについては、ファンからのプレゼントという説あり)。
こうした色付けが、日本のファンに好感を持って迎えられぬわけはなかった。出演した「ロッキー3」の日本公開はここから4ヵ月後の7月3日だが、本国アメリカでの公開は5月28日。これに合わせるかのように、日本でのホーガンの扱いも劇的に変化した。戦力として、日本サイドに入れられたのである。
契機となったのは、4月からの猪木の負傷及び体調不良による欠場だった。当時、アブドーラ・ザ・ブッチャーと抗争中だった猪木だが、そのブッチャー討伐にホーガンが名乗りをあげたのである。5月21日には日本勢の初陣として藤波、谷津嘉章と組み、ブッチャー軍団(ブッチャー、バッドニュース・アレン、SDジョーンズ)を撃破。5月26日には、メインエベントでブッチャーと一騎打ち。結果は無効試合だったが、カッコ良く人差し指を立てて、「イチバァーン!」と叫ぶ姿にファンは大熱狂する。この模様は2日後、金曜日夜8時からの「ワールドプロレスリング」で録画中継されたが、それはまさに、「ロッキー3」の全米公開の日であった。
6月18日には、蔵前国技館でアンドレ・ザ・ジャイアントと一騎打ち。結果は両者リングアウトだったが、試合後、アンドレ憎しとリングに駆けつけた猪木に、ホーガンは自ら、握手を求めた。翌週25日には、テレビ中継で初タッグを結成する(猪木、ホーガンvsアンドレ、エル・カネック。なお、前日には藤波を入れてトリオも結成)。「ロッキー3」の日本公開はこの8日後だが、ホーガンの役柄は序盤に主演のロッキーと異種格闘技戦で戦うプロレスラー、サンダーリップス役で、格闘シーンもふんだんにあり、驚異的な大ヒットを果たした。興行収入も、「ロッキー」の12億1600万円、「ロッキー2」の9億5000万を遥かに超える16億7000万円を叩き出し、作中のホーガンの演技も絶賛された。
〈本物の一流プロレスラーで日本でも人気のあるハルク・ホーガンとの異種格闘技戦も大見せ場として成功しており、ホーガンは驚くべき好演である〉(梶原一騎「キネマ旬報」1982年7月下旬号)
〈蛇足になるが、レスラーのハルク・ホーガンが素晴らしかった。三作目ともなると、わき役ばかりが光ってしまうものらしい〉(高千穂遥。同誌より)
まぎれもなくジャンピングボードとなったホーガンの「ロッキー3」出演だったが、そのいきさつには、新日本プロレスでの経験が大きく作用していた。
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