嘉門タツオ、替え唄メドレーの原点は「万博」? 21回観に行った少年時代 笑いと音楽の融合を模索して

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桑田佳祐から『嘉門達夫』の名を授かる

 契約社員になったアミューズでは、有線放送所を担当するサザンオールスターズの“宣伝隊長”として「チャコの海岸物語」の売り込みなどを請け負った。それが縁となり、桑田佳祐が名乗っていた「嘉門雄三」の「嘉門」をもらい、本名の達夫と合わせて、「嘉門達夫」が誕生した。

「その名前で音楽と笑いをもっと融合させようと。あのねのねさんたちもやっていたことだけど、立川談志師匠が言うような、可笑しさや哀しさ、人間そのものを肯定する歌を目指してね。笑いが介在する歌って、思い付きで作ってまぐれで当たることも多い。でも、継続してそれをやっている人は少なかった。鶴光師匠も仁鶴師匠も、おもろい歌を歌ったけど、続かなかった。もちろん気力も体力もいることだけれど、続ければ(その分野を)確立できるかな、という考えはスキー場で歌っていた頃からあったんです」

1970年大阪万博と「替え唄メドレー」

 そうした思いが、1983年7月のデビューシングル「ヤンキーの兄ちゃんのうた」、そして1984年6月発売の2ndシングル「ゆけ!ゆけ!川口浩!!」で開花した。そして1988年の「小市民」などを経て結実したのが、1991年5月の「替え唄メドレー」をはじめとするシリーズだ。ヒントになったのは、小学6年だった1970年に開催された大阪万博だったという。

「万博って、会場やパビリオン、文化についても脈絡のないものを集めて意味を持たせるという、“モザイク”じゃないですか。替え唄メドレーもそうで、脈絡のないものを二十数曲も集めて一曲にしているんです」

 意外にも思える着想だが、それだけ1970年の万博が特別な体験だったのかもしれない。嘉門少年は当時、会場に21回も赴いたほか、工事中の千里丘陵や、それを臨める場所まで自転車で通い、終了後の解体まで見届けた。

「開催前には街が舗装され、快速電車が停まるようになり、駅前にはバスターミナルができた。風景が目に見えて変わっていったんです。何かが始まるらしいという期待があって、更地に突貫工事でいろいろなものが建っていくのを、数日に一度は確認に行った。開幕までを指折り数えていましたね。いざ始まるともうお祭り騒ぎだけれど、終わればシーンと静まり返って、パビリオンが鉄球で壊されていくのを見て涙したりね。今回の夢洲にも開幕前から行ったし、初日からチケット買って、みんながうろうろしているのを見に行きましたよ」

「替え唄メドレー」と万博の意外なつながりを明かした嘉門。第2回【嘉門タツオが「万博になりたい」というワケ 2025年も10回超訪問 笑いと“今”のライブを続ける】では、今回の万博によせるさらなる思いや、自身のライブの見どころなどについて語っている。

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