嘉門タツオ、替え唄メドレーの原点は「万博」? 21回観に行った少年時代 笑いと音楽の融合を模索して
お笑いと音楽の融合…
シンガーソングライターの嘉門タツオ(66)が、8月に「嘉門タツオ2025夏 万博三昧!」と銘打ったライブを東京・大阪の2会場で開催する。現在開催中の大阪万博に足繁く通う嘉門は、1970年の大阪万博も会場の工事中から解体まで見届けたという。その経験は、大ヒットとなった「替え唄メドレー」の萌芽ともなった。
1968年、小学4年のときに地元・大阪府茨木市ゆかりの川端康成が、ノーベル文学賞を受賞。周囲が大いに沸き立つ中、担任の教師に読解力を褒められたことが、言葉や喋りに興味を持つきっかけのひとつにもなった。そしてエンターテインメントの目覚めは“笑福亭仁鶴”だという。
「吉原先生という先生で、読書感想文なんかも褒められた。夏休み明けの読書感想文などは13本も提出したほど。そんな頃、仁鶴さんの人気が大爆発してね。吉本や松竹のお笑い文化で育ったけど、仁鶴さんは面白いし、ラジオで喋って歌も歌う。当時、桂三枝さんや月亭可朝さんなど、人気が出たお笑いの人は、自作じゃないけど歌を出してた。そういう、お笑いも音楽も両方やってる人に魅力を感じてたね」
1967年に発売されたザ・フォーク・クルセイダーズの「帰って来たヨッパライ」などで笑いと音楽の融合を感じ、「走れコウタロー」のソルティ・シュガーや「受験生ブルース」の高石友也などギターを弾きながら面白い歌を歌うアーティストに夢中になった。そして決定的に心をつかまれたのが、1973年3月にメジャーデビューした「あのねのね」だ。
「その前にもザ・ドリフターズの『いい湯だな』やハナ肇とクレージーキャッツの『スーダラ節』もありましたけど、やっぱり人が作って与えられた歌よりも、自分たちで作った歌に憧れがあって。あのねのねはまさにそうで、おもろい人やな~と思いました。こういうスタイルの、もっと深いものをやらなあかん、なんて考えるようになってね」
鶴光に弟子入り、破門……波乱万丈
笑いと音楽が混然一体となったかたち――。そうしたものに憧れを抱いていた頃、在阪のラジオ局では歌謡曲が全盛だった。そんな中、笑福亭鶴光がパーソナリティの一人を務めていた「MBSヤングタウン」(ヤンタン)には、シンガーソングライターをバックアップする空気があった。
「鶴光師匠の人気はすごくて、東京進出のタイミングでもあった。自作曲ではないけれど『うぐいすだにミュージックホール』という歌もヒットしていて、仁鶴さんと同じ笑福亭の一門だし、鶴光さんのところに行けばヤンタンに連れて行ってもらえるかも、と考えたんです」
高校在学中の16歳のときに鶴光師匠に弟子入りし、笑福亭笑光(しょうこ)の名をもらった。狙い通り1978年からは「ヤンタン」にも出演できるようになったが、1980年、21歳のときに破門されてしまう。その後は日本放浪の旅に出て、憧れだった「あのねのね」の清水国明の家に転がり込んだこともあった。
「破門された直後はまだ若かったので、被害者意識も強かったし、番組も干されてしまって悲しい思いもあった。だけど今振り返れば、大正解だったんでしょうね。ヤンタンの堀江順一ディレクターが、アミューズの大里洋吉さん(現会長)を車に乗せたときに『誰か面白いヤツいませんか?』と聞かれて『あ、鶴光さんのところを破門になった男がこんな歌うたってます』と、僕がアルバイト先のスキー場で歌ったテープをかけてくれたんです。それがアミューズに拾われることにつながりましたから」
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