【べらぼう】福原遥が演じる花魁「誰袖」 本当に田沼意次の長男に身請けされたのか

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誰袖を身請けした土山宗次郎の役得

 わかっているのは、土山宗次郎が誰袖を身請けしたということで、そこに意知がからんだ形跡はない。身請けにかかった費用は、総額で1,200両(1億2,000万円程度)だったといわれる。あえて「総額」とされるのは、女郎屋に支払う身請け金だけでは済んでいないからだ。女郎を身請けするには、引祝いという祝儀のほか、関係各所や仲間の女郎などに赤飯をはじめとして、さまざまなものを振舞う必要があり、身請け金の2倍程度になることも珍しくなかったのである。

 だが、どちらにしても、一介の旗本には普通は払える金額ではない。

宗次郎は田沼意次の施政下で、安永5年(1776)から勘定組頭を務めていた。これは現在の財務大臣にあたる勘定奉行の下で、勘定所の役人を統括し、指揮する役職。しかも、意次が目をつけた蝦夷地(北海道とその周辺)の開発や、ロシアとの交易の実現可能性を探って、プロジェクトに大きく関与していた。

また宗次郎は、戯作者で本職は幕府の御家人だった大田南畝らと連れ立って、吉原によく通っていることでも有名だった。その流れで誰袖と知り合ったと思われるが、旗本の窮乏が話題になる時世に、なぜ宗次郎は吉原に入り浸ることができたのか。考えられるのは、勘定組頭という役職の利得である。

当時、諸大名が幕府になにかを頼む際、最初の窓口になるのは一般に勘定組頭で、したがって諸大名らは、勘定組頭に「贈り物」をするのが一般的だった。新規事情を次々と進めた田沼意次の下での勘定組頭となれば、なおさら贈り物攻勢を受けたかもしれない。

つまり、宗次郎が吉原で豪遊した費用や、誰袖を身請けするための費用は、不正な金であったと考えられるのである。実際、天明6年(1786)に田沼意次が失脚すると、宗次郎には公金横領の嫌疑がかけられ、買米金500両の横領があったことが確認されたとして、斬首されている。その際、誰袖の身請けを含めた吉原遊びに、横領した金を使ったという疑いもかけられている。

土山宗次郎が最後まで近くに置いていた

 では、多少なりとも、意知が誰袖に関わった可能性はないのだろうか。実は、意知に関する史料は残っているものが非常に少ない。ただ、佐野政言は意知に斬りかかる際、田沼父子の悪行を列挙した書付を残していた、ということを、のちに何人もが書いている。そのなかには「酒宴遊興乱淫」という言葉も見えるから、意知も吉原で遊興していた可能性も否定はしきれない。

 もっとも、それはたしかな史料で確認できる話ではない。わかっているのは、天明3年(1783)に身請けされてから3年以上経っても、誰袖は土山宗次郎と一緒にいたことである。横領が発覚すると、宗次郎は一時、自身の下で蝦夷地の調査に関わった戯作者の平秩東作のもとに匿われていた。場所は現在の埼玉県所沢市で、このとき宗次郎は誰袖を連れていた。

 田沼意知が命を落としたのは天明4年(1784)3月26日。土山宗次郎が斬首されたのは天明7年(1787)12月5日。その間、誰袖はおそらく宗次郎のもとにいたのだろう。しかし、宗次郎亡き後、誰袖の行方は杳として知れない。

香原斗志(かはら・とし)
音楽評論家・歴史評論家。神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。著書に『カラー版 東京で見つける江戸』『教養としての日本の城』(ともに平凡社新書)。音楽、美術、建築などヨーロッパ文化にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)など。

デイリー新潮編集部

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