「人間に生きる意味があるとすれば、自由になること」 責任ばかり要求する社会に横尾忠則が言いたいこと

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 社会は責任を取ることばかり要求しますね。自分の仕事にまで責任を取らせようとします。とにかく世間は、責任、責任と責任でがんじがらめにします。親も子供に、学校も生徒に、職場も社員に。責任を取る、取らせることによって秩序を保とうとします。

 このように責任でがんじがらめにすることで人間も社会も教育をも統制できると思っています。

 ところが、芸術においては一言で言って、人間も社会も自由であるべきだと考えられているのです。自由を束縛するのは責任であると芸術の世界では考えるのです。

 僕はその芸術という仕事にたずさわっています。つまり、責任を取らない、取る必要のない生き方を強いられているのです。

 ではそんな芸術とは一体如何なるものか、と問われそうですが、それが、如何なるものかわからないのです。芸術は謎です。わかりません。

 もっと言えば、自分が何を考え、何をしようとしているのか、そんな目的すらないのです。目的のないことをなぜするのか、と言われそうですが、目的がないからするのです。もし目的という大義名分があれば、そんなもん最初からやりません。

 目的がないということは遊びです。遊びに目的などありません。あるのは遊びという快楽だけです。当然、遊びには責任などありません。

 無責任です。無責任だから遊べるのです。遊びを目的化すると、そこに責任が生じてきます。遊びには本来、目的も計画も、意味も、理由もテーマも、何もありません。

 もっと言えば、自分が何をしているのかさえわかりません。またわかろうともしません。そして考えることは放棄します。生半可な考えなどがあると遊べません。考えがないから遊べるのです。

 さらにもっと言えば、言葉さえ捨てることです。三昧になることです。遊び三昧になることです。頭を空っぽにしてアホになることです。

 アホになれずにカシコクなると、あれこれ手を出して、自分の思い通りにしようとしますが、アホになるとそんな知恵も働きません。その代り、アホは何の制約も約束も責任も持つ必要がないので、徹底して無責任になれます。つまり自由になれるのです。

 自由になるということはわがままになるということです。カシコ過ぎると、責任に縛られて自由になれません。やっていいことと、やっちゃいけないことの分別を始めます。そしてその瞬間から身動きができない不自由人に変ります。つまり知的になろうとするのです。知が働らき過ぎると無分別な考えや行動が起こせません。

 ですから芸術家はアホになる術を知っています。まあ最近はカシコイ芸術家が大半ですが。社会に合わせようとする芸術家はカシコクなければならないと考えているからです。アホな芸術家になるのが怖いのです。つまり捨て身になれないのです。

 自分という存在が不透明であるということが怖いんです。芸術は不透明になることです。不透明になって芸術は初めて透明になるのです。

 自分が何を考え、何をやろうとしているかが明晰な人は芸術家に向いていません。カシコ過ぎるからです。

 アホになるということは大変なことです。自分を放棄しなければアホになれません。自分に縛られている以上、真の自己にはなれません。自分を捨てて初めて自分に目覚めるのです。

 だから、欲の深い人はアホになれません。その代りカシコイ人にはなれるでしょうね。芸術はある意味で煩悩を捨てることです。もう少しくわしく言えば煩悩を入口として、出口から出る時は煩悩を捨てなければならないのです。つまり煩悩のまま終る芸術家は欲が深いのです。アホになり切れなかった芸術家です。芸術は両刃の剣です。

 芸術家はアホになる修行をしなければならないのです。芸術家は常に目の前に人参をぶら下げられている馬みたいなものです。

 そんなわけで、芸術家という人種は、責任など取れないのです。自分の生死に関しても責任など取れません。また取る必要もないのです。責任は人を不自由にさせるだけです。だから芸術家は責任を取らない人間のサンプルとして社会に存在させられているのです。自由のサンプルです。

 人間には生きる意味も目的もないのですが、もしあるとすれば、自由になることです。これ以上の目的はないんじゃないでしょうか。だから責任から解放されると、目の前にパッと自由が広ろがります。

横尾忠則(よこお・ただのり)
1936年、兵庫県西脇市生まれ。ニューヨーク近代美術館をはじめ国内外の美術館で個展開催。小説『ぶるうらんど』で泉鏡花文学賞。第27回高松宮殿下記念世界文化賞。東京都名誉都民顕彰。日本芸術院会員。文化功労者。

週刊新潮 2025年7月10日号掲載

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