なぜ「長嶋茂雄さん」はあれほど愛されたのか? ただの人気選手から“みんなの長嶋”になった瞬間(小林信也)
長嶋茂雄逝去に続く追悼報道を見て、その大半が、〈なぜ長嶋があれほど愛されたのか?〉その謎に触れていない、そんな気がした。
【実際の写真】ただの人気選手が「みんなの長嶋」になった瞬間とは?
長嶋茂雄が国民的ヒーローになったのは1959(昭和34)年6月25日。後楽園球場での巨人・阪神戦、プロ野球史上初の天覧試合だ。
「あの光は何か?」
昭和天皇が侍従に尋ねられたひと言が天覧試合実現のきっかけだといわれる。あれはいま国民に人気のあるプロ野球のナイターの明かりです、侍従が答えると、
「夜でも野球はできるのか」
と陛下が関心を示された。その話がプロ野球関係者に伝わり、実現にこぎ着けた。
4月には皇太子(現上皇陛下)と美智子妃殿下(現上皇后陛下)のご成婚があり、日本中がロイヤルウエディングに沸いた。戦争に負け、天皇は“国民の象徴”となった。陛下のためにと戦った悲痛な戦争体験から、昭和天皇に対する複雑な思いもあったが、大勢として天皇に対する敬意と親愛の情は深く根差していた。
その天皇陛下がプロ野球を見に来られる。それは選手、監督、関係者にとって想像さえしなかった一大事だ。巨人・水原円裕監督をはじめ審判ら複数の当事者が朝、水風呂で体を清めて球場入りしたと述懐している。
長嶋は前夜、枕元にバットを並べて床に就いた。
(明日はホームランを打たせてもらえますように)
朝起きて、その中から一本を選んだ。米ルイスビル社製のバットだった。この逸話は、三十数年前、『長島茂雄 夢をかなえたホームラン』という長嶋茂雄半生記を書く際の取材で本人から直接聞いた。
スランプのどん底
職業野球とさげすまれ、世間から白眼視されて始まったプロ野球は、徐々に東京六大学野球の人気をしのいだ。個性あふれる選手たちが展開するレベルの高い攻守走が日々の娯楽を求める日本人の生活に根を下ろし始めた。
セ・リーグの1試合平均観客動員数は初年度(50年)4452人だったが、54年には1万人を突破した。そんな中、六大学記録の通算8号ホームランを打ったスター選手・長嶋茂雄が58年、巨人に入団。年間110万人前後だった巨人の観客数も長嶋入団の前年には138万人を記録し、63年には200万人を突破する。
天覧試合決定の報せは無上の喜びだったが、長嶋はその頃、スランプのどん底にあえいでいた。
59年は開幕から絶好調。4月は打率4割4分6厘と打ちまくった。手の付けられない打撃。相手チームはさじを投げ、チャンスで長嶋を打席に迎えたら迷わず敬遠策に出た。長嶋伝説の中でしばしば語られる「長嶋は敬遠に抵抗するため、バットを捨てて素手で打席に立った。それでもバッテリーは長嶋を一塁に歩かせた」という“事件”が起きたのはこの時だ。打ちたくてたまらない長嶋は敬遠攻めで調子を崩した。6月に入ると完全にブレーキがかかり、ヒットさえ出なくなった。打率は3割2分6厘まで急降下。天覧試合の前2試合も無安打に終わっていた。
「天皇陛下にすばらしい試合をお見せしたい」
3回表、阪神に1点を先制された後の5回裏、長嶋、坂崎のホームランで逆転した。6回表、再び阪神に逆転を許すが7回裏、新人・王貞治が2ランホームランを打ち、同点になった。そして4対4で迎えた9回裏、運命の打席を迎える。
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