「子どものような素直さと、無垢で無邪気な心を持っている方」 横尾忠則が「長嶋茂雄さん」と過ごした“特別な瞬間”を振り返る

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 長嶋茂雄さんが亡くなられました。89歳、僕と同年の昭和11年生まれでした。いつも病弱っぽい僕より早く亡くなられるなんて信じられなかったです。

 僕は長嶋さんと二度お会いしています。一度は今から20年ほど前、梅原猛さん原作の茂山狂言「クローン人間ナマシマ」の衣装のデザインとポスターを作った時で、千駄ヶ谷の国立能楽堂で、長嶋さんの隣の席で一緒に並んで見ました。

 この時、控室で初めてお会いしたのですが、存在が大きいだけでなく、背も高く実際に大きい方でした。「横尾さんはおいくつですか?」と聞かれたので、「長嶋さんと同い年です」とお答えしたら、「おー!」とおっしゃいましたが、この「おー!」の意味はよくわかりませんでした。

 そして、その時、長嶋さんにサインをして貰おうと思って、以前デザインした、王貞治さんと一緒にバットをかまえたお二人のツーショット写真のポスターを持参していました。すると長嶋さんは、僕のポスターに、「野球という名の芸術、長嶋茂雄」とサインをしてくださいました。長嶋さんは野球を芸術と考えておられたのです。

 バッターボックスで思い切り空振りした時、ヘルメットをクルクルと回転させて宙に飛ばすあの演出は芸術表現だったのです。またショートの前に飛んできた球をサードから横っ飛びで奪って、一塁にサーッと投げる右手を伸ばしたあの華麗なポーズも、芸術的美学であったわけです。大衆はエンターテナーの長嶋さんにしびれて、感動してしまうのです。

 あの有名な天覧試合で長嶋さんはサヨナラホームランを打って球場を沸かしましたが、またとない大舞台で劇的な見せ場を作ってしまう長嶋さんの魔術こそ芸術なのです。

 また長嶋さんの言葉がひとつひとつ面白いのです。能楽堂で、開演寸前、ロビーから人影が消えてしまいます。そんな時、長嶋さんは一言、「さすが日本古来の伝統芸能の開幕の時間だけあって、実に静寂そのものですね」とおっしゃったのです。確かにそうですが、開幕寸前はどこでも静かです。

 いよいよ狂言の幕が開きましたが、隣が長嶋さんなので僕は必要以上に緊張していました。身体がコチコチになったので僕は思わず足を組み換えました。すると長嶋さんもすかさず足を組み換えられました。しばらくして、僕は再び足を組み換えました。すると間髪を入れずに長嶋さんも組み換えられました。僕の緊張の原因は長嶋さんですが、長嶋さんは初めてご覧になる日本古来の伝統芸能のためにどうやら緊張しておられたようです。

 舞台に巨人軍の選手に扮した狂言役者が次々登場する度にひとりひとりに反応されるのですが、中でも長嶋さんのお好きな高橋(由伸)選手の時は特別嬉しそうに身体を乗り出されていたのにはびっくり。意外だったのは、メジャー行きが決まっている松井選手には複雑な感情が左右するのか、もうひとつでした。

 最後にジャイアンツの応援歌を歌いながら舞台の俳優が去って行く時、長嶋さんが突然、ジャイアンツの応援歌のリズムに乗って、両手で足の膝をパンパン、音を立てながら叩き、全身で反応された時はさすがにびっくりしました。観客が大勢いる中で、舞台の役者が歌う応援歌に合わせて、身体でリズムを取っている観客は、たったひとり、長嶋さんだけです。僕も思わず、隣の席の長嶋さんに合わせて、膝でリズムを取りそうになりました。

 何んというか、周囲の観客を気にせず、長嶋さんひとりが、天衣無縫に全身で喜びを表現しておられるのでした。いやー、こんな楽しい人は初めてです。長嶋さんは周囲の観客などにおかまいなく、自分ひとりの世界にスーッと入って行かれる、まるで子供のような素直さと、無垢で無邪気な心を持っておられる方なんですね。

 その後、長嶋さんのラジオ番組に招かれて出演したことがあります。この時は大変真面目な芸術論というか、実にかたい質問を次々され、僕はかしこまってしまいました。

 そして帰り際はエレベーターの前までお見送りいただいて、エレベーターのドアが閉る寸前に丁寧におじぎをされたのを憶えています。数日後に、長嶋さんとツーショットを撮っていただいた写真にわざわざサインをしてくださったのを送っていただきました。

 長嶋さんとはたった二度しかお目にかかっていませんが、同席させていただいた時間は僕の人生の中でも特別のメモリアルな瞬間でもありました。長嶋さんに対する想いはそれぞれの方の中で、この先もずっと存在し続けると思います。長嶋さんは同じ有名人でも、他の誰とも比較できない、ちょっと人間を越えた独特の存在であったように想います。

横尾忠則(よこお・ただのり)
1936年、兵庫県西脇市生まれ。ニューヨーク近代美術館をはじめ国内外の美術館で個展開催。小説『ぶるうらんど』で泉鏡花文学賞。第27回高松宮殿下記念世界文化賞。東京都名誉都民顕彰。日本芸術院会員。文化功労者。

週刊新潮 2025年6月26日号掲載

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