洗脳が解かれ、ヒロインが口にした衝撃の言葉 「あんぱん」戦後、地獄の苦しみが始まった

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のぶが子供たちに謝罪

 朝田のぶ(今田美桜)と柳井嵩(北村匠海)のコンビが復活した。NHK連続テレビ小説「あんぱん」のことである。現在は1946(昭21)年で第63回。2人が会うのは1942(昭17)年の第50回で描かれた嵩の出征式以来なので、4年ぶりとなる。ただし、明るい話ばかりではない。のぶの夫・若松次郎(中島歩)と嵩の弟・千尋(中沢元紀)は他界した。【高堀冬彦/放送コラムニスト、ジャーナリスト】

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 のぶは再会した嵩に対し、「教師を辞めた」と明かす。のぶは自分が教え子たちの自由な心を壊し、その家族を死なせてしまったと思っていた。

 のぶは戦時中、忠君愛国の思想を子供たちに浸透させるため、教育勅語を教え込んだ。道行く子供が「お国のために戦います」と勇ましい言葉を口にすると、「えらい、えらい」と誉めた。一方で「日本は戦争に勝ちます」と確約した。これらを悔いていた。

 のぶは子供たちに詫びる。「先生はみんなに間違うたことを教えてきました」。敗戦後の第61回のことだった。1936(昭11)年に女子師範学校に入り、担任の黒井雪子(瀧内公美)に国家主義を叩き込まれているころには予想もしなかっただろう。謝罪を行ったのはのぶだけではない。教師個人の判断で全国的に行われた。

 GHQは教師の戦争責任を重く見た。敗戦から間もない1945(昭20)10月から国家主義を教えた教師たちの追放を始める。その結果、7000人以上が学校を追われた。のぶと同じく、責任を感じて自ら辞めた教師はそれ以上いた。

 国家主義教育に関わった教師は大勢いた。だからといって「仕方がなかった」では済まされなかったので、難しかった。のぶの苦しみもそこにある。戦時下でも国家主義教育に懐疑的だった教師は少なくなかったのだ。国家主義を断固拒否した教師も存在した。

 たとえば1937(昭12)年、平和教育に取り組んでいた京都府京丹後市の小学校教員は警察署で事情聴取を受けた。その最中に変死する。警察側は遺族に対し、「遺体を医者に見せるな」と命じた。

 墓石には「平和を愛し戦争に反対して」と刻まれた。享年42。石材店を営む朝田家の住み込み従業員・原豪(細田佳央太)が日中戦争に出征した年である。これは一例に過ぎない。

 のぶは第63回で再会した嵩に対し、自分の戦時下の胸中を「立ち止まって考えるのが恐かった」「大きい波に逆らうのは恐かった」などと振り返った。責任逃れは一切していない。罪の意識がある。だから「うち、生きとってええがやろか」とまで口にした。

 のぶが不幸だったのは女子師範で洗脳的な教育を受けたことである。千葉県女子師範学校出身で戦前は教師をしていた作家の志賀葉子氏はこう書いている。「国家主義、軍国主義に洗脳されて、疑う事なく国策に沿って努力したのである」(『教育と戦争 ─我が青春に悔いあり─』日本ペンクラブ)と書いている。戦時下の洗脳の実例は枚挙に暇がない。

 のぶの場合、国家主義に懐疑的だった1937(昭12)年の第27回の時点では、黒井は体育大会で走ることすら許さなかった。ところが、のぶが「愛国の鑑」と呼ばれるようになったあとの1938年(昭13)年の第35回では、嵩から届いた偽名の手紙も不問に付される。

 のぶの幼なじみで同級生の小川うさ子(志田彩良)も当初は黒井の指導に辟易していた。だが、なぎなたなどでの努力が買われ、誉められるようになると、黒井に傾倒していった。

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