スラム街の悪ガキが「二刀流」スター選手に! ボー・ジャクソンが“MLBとNFLでオールスター出場”を成し遂げた背景にあったアメリカならではの事情(小林信也)

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 1980年代後半、日本のスポーツファンを驚かせたのはMLBとNFLの二刀流、つまり野球とアメリカンフットボールで活躍するボー・ジャクソンだ。

 本名ヴィンセント・エドワード・ジャクソンが生まれ育ったアラバマ州ベッセマーは、全米でも有数のスラム街がある地域。彼はそこでけんかに明け暮れる悪ガキだった。ついたあだ名が「ボアホッグ(猪)」。後にボーと呼ばれるのは、このボアから来ている。

 見かねた周囲がボーにスポーツを勧めた。誰にも負けたくない、ボーの気性にスポーツはピッタリだった。

 地元のマッカドリー高校で本格的に競技を始めると、野球、アメフトで母校に勝利をもたらした。3年の時、アメフトではランニングバックとして17タッチダウンなど記録的な活躍。野球では史上最多タイの20本塁打、打率5割。その上、陸上競技の十種競技で優勝。三段跳び、走り高跳びでもアラバマ州の室内記録を塗り替えた。

 多くの大学から奨学生として誘われた。MLBニューヨーク・ヤンキースからはドラフト2巡目で指名された。契約すれば、10人の兄弟を育ててくれたシングルマザーの母を楽にしてやれる。だが母はボーの大学進学を望んだ。それで地元オーバーン大学にアメフト奨学生として入学した。

MLB入り阻止の策謀

 春から秋は野球、秋から冬はアメフトのメンバーに入った。入学直後から期待どおり活躍したボーは84年1月2日に開催されたシュガーボウルでミシガン大との接戦を制して、最優秀選手に選ばれた。野球では85年、打率.401、17本塁打、43打点の成績を残した。アメフトではラッシングヤード1786ヤードを記録、年間最優秀選手に授与されるハイズマン・トロフィーを受けた。さらに、陸上競技でも五輪出場を期待され、練習も減量もせず100メートルを10秒39で走った。

 このようなスポーツ選手が誕生する風土がアメリカにはある。シーズン制を採用し、ジュニアの頃は少なくても三つのスポーツに親しむシステムを採用しているからだ。ボーはその環境から生まれた象徴的な存在といえるだろう。

 大学卒業時(86年)にはNFLドラフトの全体1位でタンパベイ・バッカニアーズから指名を受けた。しかし、バッカニアーズが事前にNCAA(全米大学体育協会)の許可を得ずにボーと面談したことが問題となり、ボーは野球の最終シーズン後半戦の出場を停止される処分を受けた。

 バッカニアーズは5年契約760万ドルを提示した。だがボーはこれに応じず、MLBドラフト4巡目で指名したカンザスシティ・ロイヤルズと契約した。契約条件は3年107万ドル。

 バッカニアーズの7倍以上の好条件を蹴って野球を選んだのはボーが卑劣な魂胆を知らされて激怒したからだ。バッカニアーズが無許可でボーと面談したのは意図的なものだったと。それによって野球で活躍させず、MLBへの道を塞いでしまえばボーがアメフトを選ばざるを得なくなる、そんな策謀だったのではないかと。

 翌年、NFLドラフト7巡目で指名したロサンゼルス・レイダースと契約。もちろん、野球と両方のプレーを認める条件での合意だ。

 ロイヤルズでは87年の開幕からレギュラーに定着。90年までの4年間、強打、強肩、好守の外野手として活躍する。ホームランは22本、25本、32本、28本とコンスタントに打ち、守備でしばしば見せるダイビング・キャッチがファンを魅了した。フェンス際まで背走し、見事に大飛球をキャッチした後、そのまま垂直にフェンスを駆け上がり、華麗に飛び降りるパフォーマンスもボーにしかできない芸当だった。

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