昭和43年の“父の日”に起きた「横須賀線爆破事件」…犯人逮捕のきっかけは「新聞の切れ端」 3万人超の購読者から「25歳の大工」を割り出した執念の捜査
昭和の時代、「爆弾事件に明け暮れた」時期があった。昭和37年11月、歌手・島倉千代子さんの後援会事務所に爆発物を郵送し、翌年9月5日には地下鉄銀座線に爆弾をしかけ10人に重軽傷を負わせた「草加次郎事件」。翌日、犯人は俳優・吉永小百合さん宅へ直筆署名の脅迫状を送り付け、指紋も検出されたが未解決に終わっている。また、昨年1月、連続企業爆破事件(1974~75年)などに関わった「東アジア反日武装戦線」のメンバーで、別の事件で指名手配されていた桐島聡容疑者(70)が、入院先の病院で死亡したことも記憶に新しい。不特定多数の人間を巻き込む卑劣な犯行だが、今回取り上げる「横須賀線爆破事件」も特異な事案だった。いったい、どのような事件だったのか――。
(全2回の第1回)
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「父の日」の惨劇
毎年、6月の第3日曜日は「父の日」である。その発祥はアメリカで、1910年から始まった。日本に伝えられたのは50年代に入ってからとされる。「父親に日頃の感謝を伝える日」として、今では5月の「母の日」と並び、イベントとしてすっかり定着している。
1968(昭和43)年の「父の日」は6月16日だった。午後3時28分ごろ、横須賀発東京行きの国鉄(当時)横須賀線が鎌倉市小袋谷地内を走行中、6両目の後部ドアに近い網棚付近で、時限爆弾が爆発した。この車両には乗客63人が乗車していたが、古都・鎌倉や近くの海を散策しての帰り道だった人が多かった。
網棚の下にいた夫婦のうち、妻は肩や腕に傷を受け「腕がちぎれる!」と泣き叫ぶ。横にいる夫に「早く逃げて!」とうながすが、その夫も胸に鉄片が突き刺さり、動けない。夫は全治4カ月、妻は同9カ月の重傷を負った。そして、東京都武蔵野市内の男性会社員(32)が飛び散った鉄片を頭部に受け、脳挫傷および頭蓋内出血により、同日午後10時43分ごろに死亡した。他の乗客も鉄片を浴びるなどして、30人の重軽傷者が出た。
「鼓膜が破れるようなものすごい音がした。爆発点のまわりの人たちが血だらけになって金切り声を上げながら床をはって逃げてきた。車内はモウモウと煙がたちこめていた。爆発したところに近づいてみると小さな電池三個に時計の金具のようなものがころがっていたので時限爆弾だと思った」
朝日新聞(昭和43年6月17日付)に掲載された目撃者の証言である。また「週刊新潮」昭和43年6月29日号では、爆破された電車に居合わせた会社員(22)の証言を掲載している。それによると、後ろの車両からバーンという音が聞こえ、連結ドアの窓越しに車両内を見たところ、網棚のあたりから白い煙が立ち上がっていたという。
〈後ろの車両に踏み込んだ時、爆発したあたりから一人の青年がよろよろと歩いて来て少し離れた座席に身を横たえた。ハンカチで頭を押えているが、その下から血が流れ出している。白い煙の出ていた網棚のあたりを見ると、網は破れてすっ飛び、天井は散弾銃を打ち込まれたように点々と穴があいている。(略)その下には、数人の人が折り重なるように倒れている。いちばん手前に老人がすわり込み、そのヒザ元に老婦人が倒れて悲鳴をあげている。
(略)その向こう側、座席の陰にうつ伏せに倒れて動かない男の人が見える〉(同誌より)
記事の最後にある「男の人」は死亡した男性会社員で、この年の4月に娘が生まれたばかり。体調の都合で、逗子市内の病院に入院しており、妻(25)が付き添っていた。父の日ということもあり、久しぶりに娘を見舞いに、武蔵野市の自宅から病院に向かい、父娘で楽しい半日を過ごした帰路で、惨劇に見舞われた。搬送された病院では、妻の泣き声が院内に響き渡っていたという。
事件捜査にあたる神奈川県警察と指導・調整に当たる警察庁には懸念事項があった。この前年、1967年3月31日には、東京駅八重洲口の「みどりの窓口」近くのごみ入れに設置された爆発物が爆破する事件や、同年6月18日には兵庫県神戸市の山陽電鉄で、停車中の車両で仕掛けられていた爆弾が爆発。死者2名、重傷者29名の被害を出していた。
〈(これら2事件に加え)全国的に爆薬を使用する犯罪が発生している中で本件は敢行された。本件犯行の性格から広域的な捜査感覚を持って、一連の爆破事件と関連させ捜査を進めていく必要があり、広域捜査体制をとる必要性から、事件発生の翌日「指定第107号事件」として全国捜査体制が組まれた〉(警察庁資料より)
特に神奈川県警察の捜査員が注目したのは、山陽電鉄の事件だった。この事件も、発生日は「父の日」だったのだ。
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