超レアな「レフト・長嶋」などなど…「長嶋茂雄」現役時代の知られざる“珍事” 「長嶋の代打」に送られた打者は緊張度MAX

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 現役時代の長嶋茂雄氏は、4番(または3番)サードがお約束だった。常にフル出場して、活躍したイメージが強いが、時には代打を出されたことや、打者一巡の猛攻の中で、ただ一人「1イニング2タコ」に終わる珍事を演じたこともある。【久保田龍雄/ライター】

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長嶋の代打を務め「野球人生の中で、このときの緊迫感が最高だった」

 長嶋茂雄が現役時代に唯一代打を送られるというまさかの出来事が起きたのが、1967年5月27日の中日戦である。

 2対5とリードされた巨人は9回2死一塁で、3番・長嶋に打順が回ってきた。

 同年の長嶋は、5月の月間打率が.181という絶不調で、この日も3打数1安打1三振1四球と復調の兆しは見えなかった。

 すると、川上哲治監督は「どんなベテランにもスランプがある。長嶋もこれほどスランプが続いているときには、心にゆとりを取り戻させることが必要だと思った。いくら大打者とはいえ、不調のバッターには好調な代打を送るほうがいい」という理由から、森永勝也を代打に送り出した。

 前年まで広島で長く主軸を担いつづけてきた左の強打者・森永は、5月24日の広島戦、同26日の中日戦でいずれも代打安打を記録し、好調を維持していた。

 だが、“ミスタープロ野球”の代打というプレッシャーは、実績十分の33歳のベテランにとっても並大抵のものではなく、「僕の野球人生の中で、このときの緊迫感が最高だったと思う」と回想するほどだった。

 そんな緊張度MAXのなか、森永は中日の抑えの切り札・板東英二に必死に食らいつき、見事右前安打を放つ。

 一方、プロ入り後、初めて代打を送られる屈辱を味わった長嶋は「しょうがない。オレはこんなに打てないのだから。5回に(中日のエース・小川健太郎から)左前安打したが、あれはど真ん中だったから打てたんだ」と寂しそうな顔をしたが、代打・森永が安打を放つと、「モリさん、いい仕事をするねえ」と自分のことのように喜んでいた。

守備機会ゼロに終わった「レフト・長嶋」

 長嶋が試合途中にレフトを守る“珍シフト”が見られたのが、1962年10月4日の大洋戦である。

 0対0の7回裏、3番サードで先発出場していた長嶋はレフトに回り、サードには20歳のルーキー・船田和英が入った。これには長嶋自身も「外野の守備はもちろん初めて。今までだってやったことないんです」と目を白黒させた。

 同年はすでに阪神の優勝が決まり、巨人は2リーグ制以降初のBクラスの4位が確定。この日も含めて残り2試合でシーズンを終える予定だった。

 川上監督は「ウチは何も話題がないので、長嶋をレフトに入れ、新聞ダネを作ったんだよ」と冗談めかしてマスコミサービスであることを明かしたが、“不動のサード”を外野に回すことによって、若手三塁手に経験を積ませる将来への布石という視点もあったようだ。

「(優勝を争って)競り合っているうちは、なかなかそこまで踏み切れない。船田らの若手が成長してくれれば、来季は長嶋の外野ということも考えられる」(川上監督)

 だが、9回に国松彰の右越えソロで虎の子の1点を挙げると、チームの勝利のためにも不安の多い外野手を続けさせるわけにいかず、長嶋は再びサードへ。

 わずか2イニングで“お役免除”になった長嶋は、1対0の勝利後、「初めてのことで勝手が違った。だけど、1度くらい球が飛んできても良かったねえ」とにやつきながら、守備機会ゼロに終わったことをしきりに残念がっていた。

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