「兄貴、そんな飲み方は絶対ダメだ」「バカ野郎」 ともにがんを経験した鳥羽一郎と山川豊の「兄弟船」を地で行く叫び

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 コラムニストの峯田淳さんが綴る「人生を変えた『あの人』のひと言」。日刊ゲンダイ編集委員として数多くのインタビュー記事を執筆・担当し、現在も同紙で記事を手がけている峯田さんが俳優、歌手、タレント、芸人……第一線で活躍する有名人たちの“心の支え”になっている言葉、運命を変えた人との出会いを振り返ります。第20回は演歌歌手で兄弟の鳥羽一郎さんと山川豊さん。知られざる兄弟愛と秘話をお届けします。

厳重な警備を突破した兄

 NHKの「紅白歌合戦」に兄弟で、実に9回も同時に出場したのが鳥羽一郎(73)と山川豊(66)である。

 歌手にとっては1回の出場だけでも宝くじが当たるようなものだというのに、それを兄の鳥羽は20回、弟の山川は11回出場している。そのうち9回で“兄弟共演”というわけだが、これはもう、偉業というしかない。

 母親がある時、こう言ったという。

「たくさんの歌手の方が紅白を目指しているのに、うちだけ2人分、出場枠を取ってしまうのは申し訳ないよ」

 兄弟が日替わりで交互にリレー連載する珍しい企画「我らの演歌路」が実現したのは9年前のこと。その中で、山川が明かしたエピソードである。

 歌謡界に残る、信じられないエピソードも残っている。

 音楽賞華やかなりし頃、81年の日本歌謡大賞授賞式での出来事だ。この年、山川はヒット曲「函館本線」でデビューし、新人賞を受賞した。日本武道館で行われた授賞式の模様は生中継された。ステージには両親の姿もあった。

 そこへ何者かが乱入してきた。翌82年、「兄弟船」でヒットを飛ばすことになる鳥羽だった。もっとも、この時の鳥羽は弟に先を越され、まだデビューもしていないただの人。その兄が呼ばれてもいないのにステージの上にいる……。

 その日、鳥羽はお好み焼き屋でテレビを見ていた。映し出された弟の姿。新人賞にノミネートされている! そうとわかると取るものもとりあえず、武道館へと向かった。そして厳重な警備を突破し、ステージに駆け上がり、両親と弟を祝福していた。

「テレビで僕の姿を見ていて、居ても立ってもいられず駆けつけてきた。警備員をかき分け、ステージまで上がって……。二重にも三重にも警備があっただろうに」

 と、山川。これに対して、鳥羽はこう語った。

「たくさんの警備員が止めに入ってきたけれども、『うるせえ、どけ、どけ!』って飛び蹴りしたりして、マグロ船でつけた力で突っ切っちゃった」

 この時のステージ模様は映像として残っており、今もたまに放送されることがある。テレビを見た鳥羽は「俺の目は血走っていた」と、その時のことを語っている。

兄のために缶ビールを用意した弟

 兄弟は鳥羽市石鏡(いじか)町で生まれた。市街から遠く離れた、陸の孤島のような田舎だった。半農半漁で生計を立てる極貧生活。母親は水深10メートルの海に潜る海女で、海から上がって来た時のピーッ、ピーッという磯笛を聴きながら兄弟は育った。

 鳥羽がこの連載で初めて明かしてくれたことがいくつもあった。

 父親は再婚だったこと、男女男の3きょうだいだが、先に生まれた姉がいること、山川の前に生まれた弟が亡くなっていること……。

 父親は博打のために、なけなしのお金も取り上げていくこともある、昭和を絵に描いたような男だった。中学を出たら叔父がやっている船に乗れといわれるが、きょうだいを学校に行かせるために「奉公に出されたんです。このことは今回初めて語る」と、鳥羽は明かしてくれた。

 その後、叔父の元を離れ、過酷なマグロ船、カツオ船に乗った。山川はそんな兄について「家計を助け、僕と妹を進学させてくれた」と語った。

 船村徹の内弟子だった鳥羽は、先にデビューした山川のアパートに泊まることもあった。その時に山川は兄のためにポケットの小銭で缶ビールを買った。鳥羽はそのビールの味が忘れられない。

「これがうまいなんてもんじゃない」

 そんな兄弟ががんを経験した。鳥羽は08年に食道がんを患い、山川は23年に肺がんがわかった。鳥羽の食道がんは連載の中で明らかにした。

 焼酎党の鳥羽は「チンチンに沸かした」お湯割りを飲んでいた。グラスが持てないくらいの超熱。それを見た山川が喉を悪くすると、何度も止めた。がんとわかった時に、

「兄貴、そんな飲み方をしたら絶対にダメだと言ったじゃないか」

 と怒ったという。

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