“無意識の女性差別”に根差す社会の共通認識 韓国映画の話題作「ラブ・イン・ザ・ビッグシティ」が否定するもの
野生を駆け巡る美しさ
この映画が20歳から30歳までのジェヒの10年間を描いていることは、ジェンダー的な意味も持つ。
大人のように見えて実はそれほどは自分のことをわかっていないその年齢で、女性の生き方を揺るがすのは既存のジェンダー意識に基づいた恋愛と、女性が支配されがちな恋愛至上主義だ。それまでエネルギーに満ちた野生動物のように生きていたジェヒも、それによって牙を抜かれてゆく。
彼女はいってみれば、自分がアルビノであることを気にもとめずに、大自然を駆け巡っていた野生動物だ。集団の中では「異物」としてのけものにされているが、あるものは「だからこそ手に入れたい」と思う。自然を駆け巡るその美しさに魅せられながら、飼いならし「自分のもの」として支配したいと望む。またあるものは、その美しさを「神聖視」する。
女性の美しさをたたえ、女神として聖母として祭り上げることの何が悪いのか、と思う男性は多いかもしれない。だがすべての女性がそれを喜び、望んでいると考えているなら、それは大きな間違いだ。
精神の自由は誰にも奪われない、奪わせない
「女性は美しい」「女性は女神、聖母だ」は、裏を返せば「美しくなければ女じゃない」「女神、聖母と言えない行為は女には許されない」という足かせとなって、すべての女性の自由を奪っていく。美しくもなく、女神とも聖母とも言えない女は、軽んじられて当たり前。社会の共通認識は、そうした無意識の女性差別をベースに成り立っている。
映画の終盤にある、文字通り傷だらけの彼女の逃亡は、そうした状況からの精神の逃亡をメタファする。
恐れを知らずに身も心も突っ込んでいったワイルドな青春時代は過ぎ、30歳にもなれば多くの人が、それなりに保守的な組織やコミュニティに属しながら生きていくものだ。だが精神の自由は誰にも奪われないし、奪わせない。その清々しい決意と、永遠に残る青春の断片が、映画のラストを輝かせているのだ。
「ラブ・イン・ザ・ビッグシティ」6月13日(金)全国ロードショー 配給:日活
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