目を背けたくなる場面も…「あんぱん」戦時下の描写が異例の“長さ”のワケ ついに、ヒロインが“覚醒”
のぶが覚醒するまで
のぶは1938(昭13)年に尋常小学校の教師になると、迷うことなく児童たちにも国家教育を施す。教育勅語を詠み上げさせた。
「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ」
国家に危機が迫ったとき、国民は身を捧げ、奉仕するべきであるという意味だ。
作者の中園ミホ氏(65)がのぶを教師にした理由は敗戦で正義が逆転し、苦しませることだけではなかった。
子供や若者は教育によって大きく変わる。教育は国の根幹。それを中園氏は言外に伝えている。
のぶが迷路から抜け出たのは1941(昭16)年の第50回である。嵩の出征式で母親の登美子(松嶋菜々子)が「死んじゃダメよ!」と叫び、憲兵に連行されそうになったときだった。
のぶは憲兵に向かって「母親なら当然やと思います」と言い、庇った。愛国の鑑のままののぶなら、考えられない。はっきりと覚醒したのは直後にこう絶叫したときである。
「お母さんのために必ずもんてきい! 死んだら承知せんき!」
おそらく、この叫びは登美子のためだけではない。自分のためでもある。
お互いに「一番古い友だち」と認め合った仲だ。1940(昭15)年、第42回のことだった。8歳だった1927(昭2)年の第3回では、のぶが「ウチが守っちゃる」と約束している。戦争で死なせたくはないだろう。
のぶの国家主義は、戦死した豪の婚約者だった長妹・蘭子(河合優実)の慟哭と反発の際に大きく揺れた。1939(昭14)年、第38回だった。
大恩あるパン職人・屋村草吉(阿部サダヲ)の壮絶な戦争体験を知ると、放心状態となる。第46回、1941(昭16)年である。
「ウチ、何を見よったのやろ……」
何も見えていなかったのだ。家族も友人も恩人も。この物語は兵士でない人間も変貌させてしまう戦争の恐ろしさも表している。
のぶは迷路に入っていたため、その実像が見えにくくなった。再確認してみたい。のぶの特技は走ることだから、その目的を調べると、実像が浮かび上がるはずだ。
数えたところ、のぶは第1回から50回までに17回走っている。だが、明らかに自分のために走ったのは教師になる夢が見つかり、高揚して疾走した第13回くらい。残りは家族のため、嵩のため、義理を果たすため。
第12回のパン食い競争で走ったのは祖父の朝田釜次(吉田鋼太郎)が1等賞品のラジオを欲しがったから。第19回では旧制高知一高を志願した嵩に受験票を届けるため。女子師範を受ける予定だった自分は遅刻しそうになった。
第24回では蘭子が朝田家のために資産家の田川岩男(濱尾ノリタカ)の求婚を受け入れようとしたので、駆け付けて止めた。第50回は嵩の出征時である。小学校の授業を途中で抜け出し、田園地帯を走り抜けた。
のぶはやはり優しい。性格の核の部分は子供のころから変わっていない。のぶが苦手という向きも一部にあるようだが、今後は変わるはずだ。
一方、戦時下を徹底的に描いているのは、やなせさんの遺志を継いでいるからだと受け止めるべきだろう。やなせさんはこう書き残している。
「日本が戦争をしたという記憶が、だんだん忘れられようとしています。人間は過去を忘れてしまうと同じ失敗を繰り返す生き物です」(本人著『ぼくは戦争は大きらい』小学館)
中園氏は早くに父親を亡くした寂しさもあり、10歳のときから一時期、やなせさんと文通していた。やなせさんの遺志が分かっているから、戦時下の描写に拘っている。放送開始前にはこう書いていた。
「やなせたかしさんの世界を描くことは、戦争を描くことだと思っている」(中園氏、『NHKドラマ・ガイド 連続テレビ小説 あんぱん Part1』)
「あんぱん」は戦時下を振り返るだけの作品に留まらず、戦争とは何だったのかを考えさせる作品になっている。語り継がれる名作になるのではないか。
また、今年は戦後80年でありながら、その記念作品と謳わないことを不思議がる声がある。まず、朝ドラにはそういう慣習がないからだろう。
たとえば戦後30年だった1974年度に放送され、名作の誉れ高い「鳩子の海」も記念作品ではなかった。
ヒロインは原爆などのショックによって記憶を失った戦災孤児・鳩子(斉藤こず恵、成人後は藤田美保子)だった。
「あんぱん」が戦後80年記念作品としない理由はほかにもあるとみる。この朝ドラの構想が固まったのは約2年前。その前からロシアのウクライナ侵攻が始まっており、さらにイスラエルによるパレスチナとレバノンへの侵攻などもあった。世界的には今も戦時下なのだ。
日本にも現在を「新しい戦前」と呼ぶ向きがある。記念作品とし、戦争は遠い過去のことだとするドラマにしてしまったら、やなせさんは嘆いたはずだ。
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