【べらぼう】えなりかずき演じる強烈な藩主「松前道廣」 ドラマよりシュールな藩政と人生

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幼少期から傲慢だった松前道廣

 松前氏は、当初は本州の商人たちが松前城下にやってきて、アイヌの人々と交易することを許していたが、次第に本州の商人がアイヌと直接交易することを禁じ、蝦夷地の産物は松前藩が独占して入手し、それを本州の商人らに売り渡すようになった。

 松前藩が交易を独占してからは、取引は松前ではなく蝦夷地の各地で行われるようになった。海沿いに「商場」あるいは「場所」がもうけられ、松前藩の船が、本州の商人たちから手に入れたものをそこまで船で運び、アイヌ民族の産物と交換した。

 アイヌ民族の産物は、当初は砂金や鷹などが中心だったが、次第にニシン、サケ、昆布など海産物が中心になっていった。船は入手した産物を積んで松前まで持ち帰り、本州の商人に売ることで利益を得た。また、「場所」の請負人からの税や海の番所における税なども、藩の重要な収入となった。

 だが、蝦夷地には南下したロシアの船がたびたび現れるようになり、北方の危機が叫ばれるようになる。そんな状況下で、明和2年(1765)に数え12歳の若さで藩主になったのが松前道廣だった。その評判は、『べらぼう』で描かれたような鉄砲遊びに興じることがあったかどうかはともかく、若いころからすこぶる悪かった。

 幼少時から英明で、文学、兵学、武術、馬術にすぐれていたという。だからなのか非常に傲慢で、一橋治済をはじめとする徳川一門や、島津、伊達などの大大名と好んで交際する一方、幕閣には常に反発する態度をとり続けたという。また派手好みで、次第に藩政への関心は薄らいで遊興に耽るようになり、吉原で浪費。複数の女郎を身請けしたと伝えられる。

幕府から戒告、ついには強制隠居

 藩主がそんな具合だから藩政は次第に困窮した。大商人に出させた御用金や借上金の金額もどんどんかさみ、貸した金を返してもらえない商人たちから、幕府の評定所への公訴がいくつも重なることになった。このため幕府から再三、戒告を受けるほどだった。

 そんなときに松前藩の周囲にはロシアの脅威が迫っていた。たとえば、安永8年(1779)にはロシアの使者が通商を求めて根室に来航したが、藩はそれを断り、その事実を幕府に隠していた。その2年後、『べらぼう』で田沼意知の情報源となる湊源左衛門が、商人とのトラブルから藩を重追放となり、浪人となって仙台に居住。そこで出会ったのが医師の工藤平助で、工藤は湊が暴露した情報をもとに、『赤蝦夷風説考』を書いたのだ。

『赤蝦夷風説考』は、『べらぼう』ではロシアとの交易を考える契機として取り上げられたが、書物の主題はロシアの脅威だった。たしかに、田沼意次は蝦夷地に港を開き、ロシアと交易する意図があったようだが、主眼はロシアの南下への警告。実際、寛政元年(1789)にも、北上する和人と南下するロシアにはさまれたアイヌ民族の反乱が起きている。

 ところが、松前道廣はそんな危機はどこ吹く風で、なんら対策をすることなく、傲慢な遊興生活を続けた。その結果、百姓や漁民の一揆が頻発し、幕府への公訴も重ねられた。そのうえ一橋治済とべったりで、彼が大御所になりたいと要求した事件にも関わるなどしたことから、ついに寛政4年(1792)、幕府は道廣を強制的に隠居させたのである。

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