皇太子が国王夫妻ら9人射殺…24年前の惨劇から「ネパール王政廃止」に至る道 「疑惑の元国王」が今盛り上げる“王政復活気運”
2分間に亘って銃声と悲鳴
〈居並ぶ親兄弟に機関銃をぶっ放し、自らも頭を撃ち抜いて自殺するという惨劇がネパール王室で起きた。犯人とされる皇太子が、結婚を反対されてキレてしまったというのだが――。〉
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2001年6月1日に起きたネパール王室の銃撃事件。当時の「週刊新潮」によれば、ディペンドラ皇太子(29=当時、以下同)がビレンドラ国王(55)夫妻ら9人の王族を射殺して自身も自死、他4人を負傷させるという前代未聞の惨劇である。
〈「カギを閉めて逃げられないようにした晩餐会場からは、2分間に亘って銃声と悲鳴が聞こえ、再びドアが開いたその場はまさに阿鼻叫喚。現場はまるで血のスプレーを天井まで吹き散らした様だったそうです」(カトマンズ特派員)〉(「週刊新潮」2001年6月14日号、以下同)
犯行現場は一族の晩餐会だった。ディペンドラ皇太子はこの席で、かねて母親に反対されていた名家の娘(22)との結婚を皆からも反対されて逆上。会場を飛び出したが、半自動小銃2丁と拳銃を持った軍服姿で戻り、犯行に及んだという。そして犯行後に立ち去る際、持っていた拳銃で自分のこめかみを撃ち抜いたと報じられた。
病院への搬送時はすでに脳死状態だったが、国家評議会は「銃の暴発による事件」としてディペンドラ皇太子の国王即位を発表。国王の実弟ギャネンドラ殿下は摂政となったが、数日後にはディペンドラ国王(皇太子)の死亡により国王に“繰り上げ”となった。
1人だけ現場にいなかった「国王の弟」
以上の経緯からすればプライベートが理由の諍いだが、事件後は冤罪説や謀殺説が広まり、デモや暴動が発生した。単なる諍いとは思えない要素が多数あったからだ。しかもディペンドラ皇太子は、若い時分こそ過ぎた行動があったものの、事件当時の評判は決して悪いものではなかったという。
〈「最近ではすっかり大人になって国王から国事行為を任されることも多かった。春の来日も遊びではなく、3つの宿題を国王から貰ってきたのだと嬉しそうに語っていました。一つはITについて学ぶこと。もう一つは国民との良好な関係をどう保つのかということ。そして3つめは平和の精神を学ぶのだと言っていました。両親を殺すなんて想像もできないような好青年です」(日本ネパール協会・野津治仁理事)〉
そして、国王の弟で摂政から繰り上がったギャネンドラ国王と、その息子パラスに対する疑惑。ノンフィクション作家の上原善広氏は「新潮45」への寄稿でこう記している。
〈現地紙のある記者は語る。「王族が集まるパーティの席に、なぜ国王の弟ギャネンドラだけがその場にいなかったのか。そして、現場にいながらその息子パラスと警備の者だけが無傷だったのか。そこが疑問なんだ」〉(「新潮45」2001年12月号「ネパール国王暗殺の真相と『毛沢東の息子たち』」)
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